大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro

『保守の遺言』(西部邁)『TOKYO外国人裁判』(高橋秀実)、ともに平凡社

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面白い本を読んでいる。『保守の遺言』(西部邁・平凡社新書)、『TOKYO外国人裁判』(高橋秀実・平凡社)。

『保守の遺言』で、今し方接した一文。

――ここで私のいいたいのは、「自衛隊という憲法違反の存在」を国民の九三%が肯定しているにもかかわらず、その六割以上が当該の憲法条項の改正に反対している、という国民精神の統合失調状態である。――

なるほど、このように日本の状態を表現できるのか、と思った。ぼんやりと感じていることに、輪郭というか、明瞭な形を与えてくれるのが、すぐれた文章なのだなと、思った。

こんな一文もあった。

――しかし、「国防の義務」をすら認めることができないでいる列島人に「投票の義務」を受け入れる余裕があろうはずもないのだ。――

二つ目の文章に接して思うのは、ベトナムのことだなあ。在住時、選挙が近くある、と友人が言ったので、「もし投票に行かなかったらどうなるの?」と聞いてみた。

「コンアン(公安)に、『行け』と言われますよ」

友人は言った。投票は義務であり、ベトナムの場合、ベトナム共産党に異を唱えることはできないようだったから、要するに、義務であり、体制の是認を強いられるものなのかなあと、当時、うすぼんやりと、考えた。

そしてベトナムは、いちおう兵役の義務があるのだった。つまり、国防の義務があるというこなんだろう。
(友人によると、抜け道があって、兵役に就かなくても済ませられるらしい。ただ学校で教練のようなことはあるらしかった)

もう一冊は、『TOKYO外国人裁判』。一九九二年の刊行だから、まだ日本の景気がよかった頃に取材をしたのだろうなと想像する。(冒頭の法廷の描写は一九八九年とあるのだ)

アメリカ国籍の人間とフィリピン国籍の人間とでは、起訴と起訴猶予の数字において大きな開きがある、などなど、細かな事実の積み重ねから、そして取材対象の証言から、日本人の差別意識がすっかりわかってしまう。

それが、読んでいてかなしいほどなのだ、なあ。

しかし、そういうものなのだろう。

先般、ベトナム人が多摩川で魚をとっていたとかで、ニュースがあった。

◎違法な漁網使いフナ捕る=容疑でベトナム人ら書類送検-警視庁
https://www.jiji.com/jc/article?k=2017120500688&g=soc

違法な網を使っていたから、ということらしい。詳しいことはよくわからない、もちろん。しかし何か、記事には差別的な何かを、感じてしまうなあ。

「ら」という言葉は、『大辞林』にいくつか定義があげられている。

「(4)人を表す名詞や代名詞に付いて,謙遜または蔑視の意を表す。」というのがあった。これに該当しそうな気がする。
でも新聞では悪い人たちのことをよく「ら」をつけて書いている気もする。

そういえば、ベトナムにいたとき聞いた話で、大阪の八尾市はベトナム人が多く住まっており、道路の中央分離帯には空心菜が植わっているというのであった。
これは笑い話の類なのだろうか? 

いちょう団地の近くを流れる境川の川縁では、やはり団地に住まうアジアの人たちが、野菜類を植えて、ひところ話題というか、問題になったという話を、この前聞いた。
(ちなみに関西にベトナム人が多いのは、姫路にあった定住促進センターを出た難民が住まったからだと聞いている)

昔、戦後の食糧難の頃、国会議事堂のあたりでも畑をやっていたと、何かの本で読むか見るかした。それは生きるためにごく当然の選択肢だったのだろうなあ。

しかし衣食足りた現代日本人にとっては、むき出しの食料探しや食料生産は、受け入れられない事柄なのかなあと、法律にも詳しくないので、ただぼんやりと、また思う。

良い本は、いつも何か、考えさせてくれるなあと思う。ドストエフスキーの作品(題名は失念)の中で、誰かが、「頭のよい人との会話は楽しい」みたいなことを言っていた。

良い本を書く人は、乱暴な言い方だろうけれども、頭のよい人(これはまったく悪い意味ではありません)だから、やはり楽しいのだなあ(会話ではないのだけれども)

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by tamaikoakihiro | 2018-03-19 22:39 | 難民 | Comments(0)