大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro
ありがたいことに、理解ある編集の方のお力添えがあった。

長年愛読している「東京人」(都市出版)で大川塾(東亜経済調査局附属研究所)をテーマとした拙稿が掲載された。

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全4回に分けてくださった。

自分のような人間の原稿が載っていいのだろうかと、いまだに不安が消えないものの、一方で一つ、形にできたことへの安堵がある。

ただいろいろと課題は多い。早くこれをもっと掘り下げてまとまったものとしたいという思いで、いまは焦っている。

なお雑誌販売のFujisanから購入可能。
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# by tamaikoakihiro | 2010-04-17 17:19 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

「アジア」という言葉

誰かが、「その言葉を使うとき、日本人はそこに自分たちを含めて考えていないことが多い」と言っていた。

「アジア」という言葉についてである。


そうなのだろうと思うことが、多い。

「アジアに旅行に行ってきてね」と学生時代、バックパック旅行から帰ってきた友人が言っていた記憶がある。

もちろんそこに日本は含まれないし、どうだろうか、中国、韓国、台湾も不安なものだ。

そういった場合、昔、南方といったタイやベトナム、マレーシアなどを想定されるのではないだろうか。

地域として、まとめて見られているのだろうか。

そういえば、昔、南方といった地域は、仏領インドシナが、戦争中、注目されていた。仏領インドシナは無論、フランスの植民地である。そういうおおざっぱな区分けがかつて、世界ではまかり通っていたわけである。

「帝国主義の時代だった」と言ってしまえばそれまでなのだろうけれども。

そのころから、日本人の自国以外のアジア地域に向ける目は、まだあまり変わっていないのかもしれない。
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# by tamaikoakihiro | 2010-04-01 23:33 | 雑感 | Comments(0)
また日付のことである。

唐突だが、「12月8日」と聞いて、いま別に12月でもないのだけれども、日本人は何を思い浮かべるのだろうと考えた。

「ジョン・レノンが撃たれた日」だろうか。

大東亜戦争の開戦日であることに言及する向きは、そんなに多くないのだろうか。

私は戦後生まれで、しかもその人口が半数を上回ったという年の生まれだけれども、開戦日のことを考える。

そしてその日、南方はタイ・バンコクの港で、在留邦人が避難した船にて警戒任務に就いていたという青年のことを想像してみる。

そのときのことを語ってくれた人も、いまは80歳代の後半である。

戦争の記憶というのは、消える一方なのだなと思う。

そして、そのうち「ジョン・レノンが撃たれた日」も記憶から消えるのだろうか。

しかしもし平和を「imagine」で歌った彼のことを持ち上げるなら、もっと重い意味を持つ開戦日のことを、日本人は思うべきのような気もする。
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# by tamaikoakihiro | 2010-03-28 14:31 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)
3月に入ると、毎年思い出すことがある。

「明号作戦」である。正確には私自身が経験したわけではないから、「想像する」といった方がいいのだろう。

1945年3月9日、仏領インドシナにあった日本軍は、フランスの植民地政府を解体した。これにより現在のベトナム、カンボジア、ラオスの3国が、形式上のことかもしれないが、独立した。

この一連の軍事行動を「明号作戦」という。これは日本軍が使った秘匿号である。

当時の現地軍司令官の回想では、準備段階では「マ号作戦」などと呼ばれていたようだ。

話が脇道に逸れた。なぜ私がこの作戦を想像するのか。

それは一兵士として、ベトナム人の協働を促す特殊工作隊のメンバーとして、または一学生として、現地にいた人の話をじかに聞いたり、読んだりしているからだろう。

「それまで安南人(ベトナム人の植民地時代の旧称)はフランスに支配されていた。それを一晩の作戦で覆してしまった。安南人はわーっとなりましたよね」

戦後はベトナムに残留し、数奇な運命を刻んだ、ある老人は、かつて私にそう話してくれた。

「親日勢力をもとに傀儡の独立国をつくっただけではないか」

先述のように、そんな見方はもちろんある。それは否定できないものだろう。

しかし既存の支配体制を明白に破壊した点で、一つの歴史の転換点だったのだろうとも思う。

そして夜半、息を潜めてフランス植民地軍の兵営近くにあったという、ある人の回顧談を思い出す。

生きるか死ぬか、青春のただなかで経験したことを、その人は、じつにわかりやすく、戦後生まれの私に話してくれた。それがありがたかった。

私は経験していないのだから。

そういえば芥川賞作家の古山高麗雄は「今夜、死ぬ」という短編で、カンボジア・プノンペンで明号作戦に参加した折のことを書いている。やはり若くして死に直面するときの気持ちを、テンポの良い語りで表現している。

奇しくも日本軍が軍事行動を起こしたのと同じ頃(3月10日未明)、東京は下町を中心に米軍の大規模無差別爆撃にさらされた。

そんなこともまた、思う。
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# by tamaikoakihiro | 2010-03-26 22:26 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)
シンガポールにはチャンギー国際空港という空港がある。アジア圏のハブ空港として有名である。

その近くに「チャンギー刑務所」というものがかつてあって(いや、今もあるのかもしれない)、昔、日本人が、戦犯をはじめとして各種の罪に、連合軍によって問われたり、彼等の調査の対象になったりしてそこに収監されていた。

そこに東亜経済調査局附属研究所の卒業生も含まれていた。

内地では大川周明がA級戦犯として訴追されたこともあり、その弟子と呼ぶべき若者たちの調査をしなければ、連合軍は気が済まなかったようだ。

その当時のことを、卒業生に聞いたことがある。

「がたーん」

と音がするそうである。

絞首台の板が外れて人が下に落ちた瞬間の音だという。

その人は独房にいて音を聞いていた。ただそこで成仏を祈るだけだったという。

よく勘違いされ、BC級戦犯は、A級戦犯より罪が軽い、と思われているようだ。

しかしそんなことはもちろんない。BC級の方が、粗雑な復讐裁判によって根拠もなく処刑されたケースが多いというのが、戦犯裁判を語る上で常識にあたる。

そのシンガポールでの犠牲者を悼む集いが、今も東京で行われている。場所は池上本願寺である。

毎年四月、当時チャンギー刑務所で犠牲になった人たちの遺族、関係者が参加する。

戦犯の教誨師を務めた田中師はここの僧侶である。

私は先年、参加する機会を得た。田中師も病身にもかかわらず、車椅子で参加されていた。

戦後65年、今も慰霊は続く。
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# by tamaikoakihiro | 2010-03-22 17:11 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)