大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro

朝鮮新義州

『満洲難民 三八度線に阻まれた命』(井上卓弥・幻冬舎)という本を読んでいたら、古山高麗雄の初期の長編小説『小さな市街図』を思い出した。

「吉岡久治が朝鮮新義州の市街図作りを始めたのは、昨年の五月だった」で始まる小説である。新義州からの引揚のことも書いている。古山は新義州生まれだけれども、敗戦は仏領印度支那で迎えているから、戦後の朝鮮半島からの引揚は体験していない。

執筆にあたっては、関係者に取材して歩いたようである。

後半で主人公が、娘に新義州の話をしていて、通じない場面が出てくる。トーキーの映画館ができたときのこと、元旦に楽隊が門付けにきたこと……どれも娘には「?」なのである。

これは古山自身が体験したことなのかもしれないな、と想像している。戦後生まれに、植民地のことを話しても通じないのは不思議なことではない。断絶を感じたことだろう。

しかしそれを大仰に言い立てないのが、古山の作品の魅力だと思う、な。
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# by tamaikoakihiro | 2016-06-04 04:56 | 作家 | Comments(0)
「青年は人間性の本当の恐しさを知らない。そもそも市民の自覚というのは、人間性への恐怖から始まるんだ」(三島由紀夫「東大を動物園にしろ」)

なるほど、人間は、確かに恐ろしい部分をたくさん持っていると思う。動物を愛護する一面があっても、他国の人を排撃したり、とか。

「東大を動物園にしろ」はこう続く。

「自分の中の人間性への恐怖、他人の中にもあるだろう人間性への恐怖、それが市民の自覚を形成してゆく。互いに互いの人間性の恐しさを悟り、法律やらゴチャゴチャした手続で互いの手を縛り合うんだね」

発表は,1969年(昭和44)。それから7年後に私は生まれたのだな。1976年というのは、戦後生まれが人口の過半を占めた年だということを、どこかで読んだ。改めてその数字を確認していないけれども、そうなのだろう。

生まれる少し前までは、70年安保の闘争というので、世情が騒然としていたらしいことは、新左翼関連の本を読みあさっていた頃に知った。

無職だった時期に、一度、その関連の事件(東アジア反日武装戦線が起こしたものだったような気がする)の裁判を傍聴したことがあった。たった一度の傍聴では何もわかるはずがない、な。

「東大を動物園にしろ」は、もちろん学生運動を念頭に置いて書かれたのだろう。書かれたものには、常に時代が背景として立っているのだろう。もう少し、昭和後期について知らないと、いけないなと思う。何しろ自分が生きてきた時代であるのだから。

今日は五・一五事件の日。大川周明が関与し、逮捕された。この事件のことを含め、政治について語ることを、大川が後に開いた私塾、東亜経済調査局附属研究所(大川塾)では、禁じられていたという。
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# by tamaikoakihiro | 2016-05-15 08:57 | 昭和後期 | Comments(0)
大田区に行ってきた。乗り換えを何度かして、目的地に着いた。駅は久が原で、初めて降りた駅だった。小さな駅で、人の数も少ない。
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東急電鉄の小さな(?)路線で見かける壁に張り付いた、あるいは壁から生えだしたようなベンチを見て、「ああ、東急だな」と思う。

池上本門寺での催事に出かけた時期があって、その折に、見て覚えたように思う。

踏切のあたりで、インド料理屋の人が、チラシを配っていた。踏切が時々鳴った。

スーパーに近い喫茶店で一息をついた。もうもうと煙草の煙が立っていて、年配の客が多く、年金や財産の話題が多かった。

久が原まで行く途中、病院が近くにそびえる駅で乗り換えた。その病院には、身内を見舞ったことがある。10年くらい前である。雨が降っていて、寒かった。
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その後、そうだ、勤めの関係で二度ほど訪れたけれども、いずれも雨が降っていた。一度は、カメラマンのWさんがいっしょだった。Wさんは、覚えているだろうか。

ともあれ旗の台は雨の記憶しかない。今日乗り換えで使って、ようやく晴天の記憶ができるわけだ。

しかし、記憶はいつか混濁するものだろうから、晴れもそのうち雨天になるかもしれない。

晴れのイメージから、突然に、プロコンドル島を思い浮かべる。

ベトナムにいたときに、そのプロコンドル島に行かなかったことを、今になって悔いる。コンダオという名前になっていたその島は、ベトナム戦争当時には、政治犯が収容されていた。

大東亜戦争が終わったあとには、日本軍憲兵を主とする戦犯既決囚が収容されていた。さらにその前は、フランス植民地政府が、安南人(ベトナム人という呼び方は、独立運動に直結するもので、使われていなかった)の政治犯が収容されていた。

プロコンドル島で服役していた人の手記や絵を見たことがある。実際にいた人の話も聞いたわけだけれども、イメージは晴天を伴う。


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# by tamaikoakihiro | 2016-05-01 19:15 | 戦犯裁判 | Comments(0)

復讐の話

『731―石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く―』(青木冨貴子・新潮文庫)を読むと、細菌戦の研究成果の提供と戦犯として訴追しないことが、一つの取引としてあったことが、わかる。

なるほど、良い材料を持っていると、敗者も勝者と対等に近い取引ができる、ということなのだろうか。

サイゴン裁判の資料を眺めていたら、個人の手記もあった。取引の材料などなく、勝者からの訴追を受けた人々のことである。

興味深いことが書かれていた。

戦犯容疑者として取り調べを受けた人々は、フランス側から相当厳しい拷問にかけられたようである。

以下、引用。

「留置所に入ると同時に下剤を服用させられてそのまま十日間絶食させられた者(S少佐)、探偵局で赤チンに壁土を混ぜて呑まされた者(S大尉尉)、同じく探偵局で殴打水攻めの拷問を受け約一ヶ月間歩行困難となった者(O軍曹、後日処刑)、廊下のコンクリートの壁に向って立たされ監視の下士官から後から力一ぱいに後頭部をつきとばされて額を壁にぶつけられた者(M大尉、K中尉、H曹長)等大多数の者が拷問を受けた」

そうすると、あるとき拷問を受けた者の中には脱走する者がいたようである。

「S少佐H大尉は作業場より逃亡してヴェトミン軍に入り戦犯局デュテー法務少佐、取調官ノゲー及佛印高等弁務官に対し『この日本人の恨みはきっと晴してみせる』との果し状を送った」

ヴェトミン(ヴェトナム独立同盟)は、かのホー・チ・ミン(漢字では胡志明。志の明らかな外国人という意味になるらしい)が、率いた独立闘争のための組織で、日本人多数が参加したことは、近年だいぶ知られるようになったことだと思う。

フランスは、日本に武装解除された恨みがあっただろうから、自分たちや自分たちの仲間を取り締まった日本人は憎かったのだろうなと思う。

勝者になると、今度は日本人に厳しくあたったわけだろう。

そこから脱出した日本人が、独立闘争の側に入って、フランス人に復讐してやると脅す――

まるでドラマのようだなとも感じる、が、当事者にとっては命がけであったのだから、軽薄な感想は慎まないといけないのかもしれない。
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# by tamaikoakihiro | 2016-04-04 05:35 | 戦犯裁判 | Comments(0)

日付を見ると

もう4月になるのかと、あくせく坂道をこぎ登りながら思った。

ベトナムにいたとき、「春だな、桜だな」と思うことは、もちろんなかったわけだ。
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(写真は九段会館)

ちょうど、ランソンに行ったのは、3月の半ばを過ぎた頃だったと思う。
堡塁のあとと思われるところに登って、市内を見下ろした。
中国はあっちかなと、思ったのだったか。

ランソン事件の資料を見ると、判決の確定した日は1950年12月8日とある。
これはやはり何か暗示するものがあるのだろうか。
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# by tamaikoakihiro | 2016-03-31 21:58 | 戦犯裁判 | Comments(0)