大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro

JRの駅、西日本

用事があって、西日本に行ってきた。新幹線のある駅で在来線に乗り換えた。ホームの掲示を見ていると面白いものがあった。
a0153209_23585157.jpg


しばらく眺めていたら列車が来た。到着した駅の待合室の天井付近ではツバメが巣をつくっていた。
a0153209_051828.jpg


海の近い街でしばらく過ごして、遠目に砂浜を見て、帰った。暑い一日で、車窓から見た在来線もつかれた感じだった。
a0153209_0161763.jpg

[PR]
# by tamaikoakihiro | 2016-07-11 23:15 | 雑感 | Comments(0)

駅前、岐阜、長良川

この前、岐阜に初めて行ってきた。曇天だったけれども、岐阜駅は三階建てで見晴らしが良いように感じた。

長良川からそう遠くない、静かな古い町並みの残るところで、昔話を聞かせてもらうことができた。
a0153209_21304741.jpg


帰る前に、長良川の近くまで出た。泥色の水が多く、鵜飼いは今日は出来ないだろう、ということであった。

岐阜駅の周辺は、何となく賑やかな感じがして、いつかゆっくり歩いてみたいと思った。
[PR]
# by tamaikoakihiro | 2016-06-28 21:33 | 満鉄 | Comments(0)

朝鮮新義州

『満洲難民 三八度線に阻まれた命』(井上卓弥・幻冬舎)という本を読んでいたら、古山高麗雄の初期の長編小説『小さな市街図』を思い出した。

「吉岡久治が朝鮮新義州の市街図作りを始めたのは、昨年の五月だった」で始まる小説である。新義州からの引揚のことも書いている。古山は新義州生まれだけれども、敗戦は仏領印度支那で迎えているから、戦後の朝鮮半島からの引揚は体験していない。

執筆にあたっては、関係者に取材して歩いたようである。

後半で主人公が、娘に新義州の話をしていて、通じない場面が出てくる。トーキーの映画館ができたときのこと、元旦に楽隊が門付けにきたこと……どれも娘には「?」なのである。

これは古山自身が体験したことなのかもしれないな、と想像している。戦後生まれに、植民地のことを話しても通じないのは不思議なことではない。断絶を感じたことだろう。

しかしそれを大仰に言い立てないのが、古山の作品の魅力だと思う、な。
[PR]
# by tamaikoakihiro | 2016-06-04 04:56 | 作家 | Comments(0)
「青年は人間性の本当の恐しさを知らない。そもそも市民の自覚というのは、人間性への恐怖から始まるんだ」(三島由紀夫「東大を動物園にしろ」)

なるほど、人間は、確かに恐ろしい部分をたくさん持っていると思う。動物を愛護する一面があっても、他国の人を排撃したり、とか。

「東大を動物園にしろ」はこう続く。

「自分の中の人間性への恐怖、他人の中にもあるだろう人間性への恐怖、それが市民の自覚を形成してゆく。互いに互いの人間性の恐しさを悟り、法律やらゴチャゴチャした手続で互いの手を縛り合うんだね」

発表は,1969年(昭和44)。それから7年後に私は生まれたのだな。1976年というのは、戦後生まれが人口の過半を占めた年だということを、どこかで読んだ。改めてその数字を確認していないけれども、そうなのだろう。

生まれる少し前までは、70年安保の闘争というので、世情が騒然としていたらしいことは、新左翼関連の本を読みあさっていた頃に知った。

無職だった時期に、一度、その関連の事件(東アジア反日武装戦線が起こしたものだったような気がする)の裁判を傍聴したことがあった。たった一度の傍聴では何もわかるはずがない、な。

「東大を動物園にしろ」は、もちろん学生運動を念頭に置いて書かれたのだろう。書かれたものには、常に時代が背景として立っているのだろう。もう少し、昭和後期について知らないと、いけないなと思う。何しろ自分が生きてきた時代であるのだから。

今日は五・一五事件の日。大川周明が関与し、逮捕された。この事件のことを含め、政治について語ることを、大川が後に開いた私塾、東亜経済調査局附属研究所(大川塾)では、禁じられていたという。
[PR]
# by tamaikoakihiro | 2016-05-15 08:57 | 昭和後期 | Comments(0)
大田区に行ってきた。乗り換えを何度かして、目的地に着いた。駅は久が原で、初めて降りた駅だった。小さな駅で、人の数も少ない。
a0153209_19145328.jpg
東急電鉄の小さな(?)路線で見かける壁に張り付いた、あるいは壁から生えだしたようなベンチを見て、「ああ、東急だな」と思う。

池上本門寺での催事に出かけた時期があって、その折に、見て覚えたように思う。

踏切のあたりで、インド料理屋の人が、チラシを配っていた。踏切が時々鳴った。

スーパーに近い喫茶店で一息をついた。もうもうと煙草の煙が立っていて、年配の客が多く、年金や財産の話題が多かった。

久が原まで行く途中、病院が近くにそびえる駅で乗り換えた。その病院には、身内を見舞ったことがある。10年くらい前である。雨が降っていて、寒かった。
a0153209_19185753.jpg
その後、そうだ、勤めの関係で二度ほど訪れたけれども、いずれも雨が降っていた。一度は、カメラマンのWさんがいっしょだった。Wさんは、覚えているだろうか。

ともあれ旗の台は雨の記憶しかない。今日乗り換えで使って、ようやく晴天の記憶ができるわけだ。

しかし、記憶はいつか混濁するものだろうから、晴れもそのうち雨天になるかもしれない。

晴れのイメージから、突然に、プロコンドル島を思い浮かべる。

ベトナムにいたときに、そのプロコンドル島に行かなかったことを、今になって悔いる。コンダオという名前になっていたその島は、ベトナム戦争当時には、政治犯が収容されていた。

大東亜戦争が終わったあとには、日本軍憲兵を主とする戦犯既決囚が収容されていた。さらにその前は、フランス植民地政府が、安南人(ベトナム人という呼び方は、独立運動に直結するもので、使われていなかった)の政治犯が収容されていた。

プロコンドル島で服役していた人の手記や絵を見たことがある。実際にいた人の話も聞いたわけだけれども、イメージは晴天を伴う。


[PR]
# by tamaikoakihiro | 2016-05-01 19:15 | 戦犯裁判 | Comments(0)