大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro
今日、月刊「文藝春秋」16年10月号が手許に届いた。明日が発売日だ。春以来、取り組んでいたことが、形になった。
a0153209_22591328.jpg


正確にいうと、2012年秋以降だけれども、具体的にまとめようと、必死になったのは、声をかけて下さったMさんのおかげである。

今回、取材にも同行くださったMさんと初めてお目にかかったのは、『大川周明 アジア独立の夢』(平凡社新書)が出た2012年だから、もう4年前か。

「週刊文春」で著者インタビューをしてもらって、担当してくださったFさん(今は別の会社で、別の雑誌でご活躍中だと思う)とMさんと、後日会食したのだったなあ。あれはちょうど今頃だったかもしれない。

Mさんはときどき連絡を下さって、その都度、「こんなことをやっています」と、目下の取材の話をお伝えしていた。

それが今回、こういう形でまともな文章として世の中に出ることになって、嬉しい。満鉄のことは、大川周明がはじめて給与をもらった会社(満鉄の東亜経済調査局)であるし、大川の若き弟子たちが学んだ東亜経済調査局附属研究所に満鉄も出資していたから、ずっと気になっていた。

大陸に若くしてわたった人たちの、心のありようを、知りたかった。それもまた、私自身が真似しようとして生活感をもって実行できなかった「海外雄飛」を実践された人たちへの憧れがおおもとにあると、思って居る。

a0153209_22595071.jpg


デスクとして原稿をみてくださったもう一人のMさんは、住まいが近いことが、お目にかかった折にわかって、これもまた嬉しいことだった。ひなびたベッドタウンと思われる地域の外れに私にとって、そのベッドタウンの中心地に住むMさんがうらやましい。

ともあれ取材に応じて下さった元社員の方々、社員二世の方々、そしてその家族の皆様に御礼を申し上げねばと思う。取材から時間がたって、鬼籍に入られた方も何人かいらっしゃった。
[PR]
# by tamaikoakihiro | 2016-09-08 23:08 | 満鉄 | Comments(0)
カラーでみる太平洋戦争」(NHKスペシャル)のDVDを買って見ている。

当然だけれども、モノクロで見てきた戦争の映像や写真が、カラーで流れる。そうか、そんな色だったのかと、驚いたり、少年の頃に読んだ雑誌や本に載っていた図版の彩色を思い出したりする。

私が少年の頃は、たぶん、戦争経験者がまだ世に多く、考証もしやすかったのかもしれない。
a0153209_047188.jpg

(写真は七ヶ宿で撮影したもの)

上記の番組は敗戦から70年目という節目にあわせてつくられたようだから、そうした人手による考証でない方法で、色をつけたのかなと想像する。

マレー作戦の映像に色を付けると、兵隊が首から戦友の骨を入れた箱を吊っているのが際立ってきたとのナレーションがあった。

なるほど、モノクロでは、白い布で包んださまが、目立たないのかもしれない。

カラーというのは、すごいなと思う。いまは何でもカラーだけれども、モノクロの時代が、やはりあったわけだ。

私は戦争の時代を、どうしてもモノクロのイメージに引きずられて見てしまうし、感じてしまう。

でも当時を知る人には、当然だけれども、カラーの記憶が残っているわけである。

私が話を伺った方々も、カラーの記憶を保持しているわけだ。戦時中のサイゴンの美しさを語ってくれた方、敗勢のビルマで学友との別れを語ってくれた方、戦犯裁判のこと、獄中のことを語ってくれた方。

話を聞くというのは、モノクロからカラーへ、そして動画へと、導いてもらうことでもあるのかな、と思った。

会津若松編成の歩兵第二九聯隊のことも、ガダルカナル島のことで取り上げられていた。同聯隊にいらした方に、十年ほど前、話を伺った。その方は、ガ島は経験していらっしゃらなかったようだけれども、ビルマから仏領印度支那に転じた頃のことを話して下さった。

仏印はツドモという街での経験を興味深く伺った。ツドモはいま、ホーチミン市の郊外として発展しているようだし、日本の不動産会社が何か開発をしていると、ニュースで読んだ記憶がある。

その街にあった飛行場から、日本軍の航空隊が飛び立ち、マレー沖海戦でイギリスの新鋭戦艦を沈めたという。

細部を知ると、カラーはもっと微細になっていくのだろうなと思った。
[PR]
# by tamaikoakihiro | 2016-09-06 23:01 | 雑感 | Comments(0)
自分と意見の異なる人の話を聞き、丁寧にまとめていく作業というのは、途方もない労力を要するのだろうと想像する。

『日本会議の正体』(青木理・平凡社新書)を読んだ。

読んだけれども、読むと知らないことが多すぎて、自分が現在進行形のものに、苦手意識があるか、感じた、というのが正直なところなのである。

しかし現在進行形の事柄にも、必ず源流があることを、教えて貰った気がする(当然のことなのだろうけれども、本を読んで学ぶことはそういう当たり前のことの方が多いのかも知れない)

本の大きな筋とはあまり関係ないのだろうけれども、次のような表現に目がとまった。

「全国の大学のキャンパスは左派学生に席巻されており、右派学生の蠢動がはじまったとはいっても、それはごくほそぼそとしたものにすぎなかった」(p65)

これは「早稲田大学学生連盟」結成に関する記述の一部である。これは1966年のことであるようだ。

自分の母親は1946年生まれで、東京で大学生をやっていたので、昔、極左運動に興味があったころだったか、「学生運動の類いに関わったのか、それともノンポリだったのか」と尋ねたことがある。

ノンポリだったそうである。てっきり全学生がいわゆる左翼的な活動に邁進していたと思っていたから、拍子抜けした。

大学に、親が活動に熱心だったという友人がいた、どういうわけか私は恥ずかしい思いで「うちの親はノンポリだった」といったら、「あの時代、ノンポリでいたことの方が、意味があるでねえの」との返事だった。

なるほど。

その後、右派の学生がいたことも知った。反戦平和といえば、錦の御旗に近いと思うけれども、それを掲げる人たちと、違う立場で活動していた人たちもいたのだな、と思った。

さて、上記の一文に戻る。「蠢動」とあった。

手許の辞書をひくと、「(1)虫などのうごめくこと。」「(2)(取るに足らないものが)こそこそとうごめくこと。」とある。

うーん、かなりネガティブなイメージだなと思った。

とはいえ、著者が、自分とは異なる見解を持つ人々に取材し、その結果をまとめた本であるから、〝異物視〟する言葉が出てきても不思議はないな、と思うし、それでもいいのかなと思う。

以下、私の調べたりして、の経験から。

北部仏領印度支那を解体したあとの日本軍の記録(戦後)には、「ベトミンが蠢動」といった記述があったような記憶がある。ホー・チ・ミンが1945年頃から仕掛けていたゲリラ戦をとるに足らないと思っていたのだろう。

しかしながら、一方で手痛い目にも遭わされたようだ。そして今やベトナムの政権は、ホー・チ・ミンがつくったベトナム共産党によって担われている。

また話は戻って……

「蠢動」していただけだった人たち(右派学生)がやがて、「日本会議」という影響力を持つ組織へとつながっていく……そんな構図があるのだろう。

蠢動というのは、なにやら少し蔑視も感じる言葉だけれども、蠢動する方にしてみれば、そうするだけの理由があって、そうしているにちがいない、と思う。何を書いているのか、自分でよくわからなくなってきた……

ごく小さな動きの時期から関わっていた人たちのことを、もう少し知ってみたいな、と思った。あの時代に、少数派でい続けることは、戦前・戦中に反戦運動をやるよりは容易だったかもしれないけれど、大変なこともあったに違いないと思うからである。
[PR]
# by tamaikoakihiro | 2016-08-26 11:50 | 雑感 | Comments(0)
『逃亡「油山事件」戦犯告白録』(小林弘忠・中公文庫)を読んだ。川にまつわる語りで始まり川の描写で終わっていた。

戦犯がテーマだけれども、導入と終わりの書き方に感銘を受けた。書き方がうまいというか、なるほどと思わされるというか、巻を措く能わざる(この言い方でいいのだっけ?)感じだった。

70年前、戦犯としての訴追をおそれて逃亡生活を送る日本人がいたのだ。そういう人たちを、捕らえようと必死になったのも日本人なのである。

「万歳」の声で出征の場を飾り、戦犯になれば、彼らを貶めて追い詰める人たちが、いたというわけだ。

たかだか70年前のことを、しかしもうほとんどの人が知らないのである。江戸時代のことは時代劇でさんざんやるが、戦争のことは、あんまり取り上げないのである。夏の風物詩として消費するくらいなのである。

神保町の古書店で、ふと振り返って見た文庫の棚にあった本である。運のよいことだった。
[PR]
# by tamaikoakihiro | 2016-08-23 18:49 | 戦犯裁判 | Comments(0)
NHKのラジオで、古山高麗雄のことが放送されていた。肉声に接すると、「ああ、なぜ生前、自分は知る機会がなかったのだろう」と思う。

朝、パソコンで聞いていると、涙が出そうになった。不審がられるので、泣かなかったけれども。

『カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス「古山高麗雄」』

私が古山(人前で話すときは「先生」と敬称をつけるけれども、ここでは省略する。そもそも面識のなかった人間が先生と呼んで良いものか……)を知ったのは没後だった。

返す返すも残念だ。

去る七月の終わり、ゆかりの地である宮城県七ヶ宿町に行く機会があった。昔は七ヶ宿村といったところで、古山の父のふるさとである。
a0153209_2359523.jpg

町の「水と歴史の館」には「古山高麗雄の世界」と題した展示がある。古山の遺品のうち、自宅にあったものが寄贈されたのである。

講演というか、集まった皆さんの前で、私がいかに古山を敬愛しているか、煎じ詰めるとそういうシンプルなことを、あれこれ本を書くときに参考にした資料を交えてお話しした。一時間と少し。
a0153209_014092.jpg

生まれてはじめての体験だったので、たどたどしく、何を話しているのか、自分でもよくわからなかった、な。昼過ぎからだったので、もっとたくさんの人を寝かせてしまうと思ったけれども、熱心に聞いてくださっていて、ありがたいことだった。

いちばん反応がよかったのは、古山の第三高等学校時代の成績表をスクリーンに映して話したときかもしれない。

個人情報そのもの、ともとれなくもないけれども、京都大学の資料館で出してもらえたものだった。

「落第」の文字を見直すと、軍国の風潮が濃密に世を覆う頃に、鬱屈し、怠惰に流れ、学校を去ろうとしていた古山の姿が想像された。

私の話が終わったあと、古山のお嬢さんからは「父は(講演は)あなたよりうまかったと思うな(笑)」と、慰めの言葉(?)をもらった。お嬢さんが同道くださったので本当に助かった。
a0153209_035543.jpg

何より嬉しかったのは、古山と生前関係のあった親族の方々、知人の方々が、古山のお嬢さんと初めて会うことに、大変な喜びを示して下さったことだった。

古山は家庭では、何と言えばいいのか、軽んじられるタイプの夫であり父親だったらしい。芥川賞も「父がとれるとは思わなかった」というのがお嬢さんの弁である。だから古山に対する辛辣な見方をお嬢さんは教えてくださるわけだけれども、伺うエピソードから、家庭人としての一面、また愛妻家らしい優しさもほの見えたりして面白いのだった。

父娘の距離が近い関係よりも古山家のような懸隔のありかたが、私にはむしろ好ましく思える、人間らしさがある意味でにじんでいる、というか。

当日は、古山の親類にあたる方で、取材時にお世話になった方が、たくさんの拙著を持参くださっていた。サインをと言われたときは面食らったけれども、これも嬉しいことだった。

親類筋の方々と記念撮影ができたのも、ありがたいことだった。
a0153209_0121088.jpg

取材時にお世話になった、前館長の方、雪の中いっしょに「伐開路」(これは古山の三部作『フーコン戦記』で印象的に出てくる言葉だ)をつくった元館員の方に再会できて、これも嬉しかった。

元館員の方とは、昨年本をお送りしたときに電話でお話ししていた。「出ましたね!」と喜んでくださったことが、思い出された。

古山はベストセラーを出すような小説家ではなかった。そのため、と言って良いのか、読者と丁寧に手紙でやりとりをして、実際につきあいをしていた。会うこともあったようである。

そういう姿に憧れていたから、自分がそれに近いことができた七ヶ宿訪問は、実にいうことのないくらい充実した機会になった。

また訪れたいな、と思う。今回は初めて緑におおわれた七ヶ宿を見た。美しかった。「水と歴史の館」の玄関に置かれていた夜香木の花は、いま咲いているだろうか? あまくにおっているだろうか?

そうだ、もし古山に生前私が会えていたとして――果たして私はどう思われただろう?

私のような四角四面な人間を、古山はあまり好かなかったのではと思う。いや、独特の包容力で「そういう奴か」と受け止めてもらえたかもしれない。

しかし想像でしかない。

振り返って、会ったことのない人のことを書けたのは、やはり望外のことだったなと思う。ずっと助けて下さった編集者のKさんにも、ここでこっそりお礼の言葉を……
a0153209_061818.jpg

[PR]
# by tamaikoakihiro | 2016-08-11 00:08 | 作家 | Comments(2)