大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro

高座渋谷、いちょう団地


a0153209_21282612.jpg
小田急江ノ島線高座渋谷駅を降りて、東海道新幹線が下を走る道路を渡り、細い道を下った。「昼なお暗い」という表現がよくあてはまりそうな道には、街灯があって、それが点灯していた。左手に神社があった。

安いことで知られるスーパーを見てから団地の敷地内に入ると、よくこの団地を紹介するときに紹介される、数カ国語で記された看板の類を目にする。

バイヨン寺院の写真を看板に使った食料品店に入った。カンボジアのものばかりでなく、ベトナムやタイのものもあった。東南アジアの市場でかぐにおいがあって、懐かしい感じがした。お茶や調味料を買う。

店の人は、80年代に日本に来たということだった。自分がまだ10歳にもなっていない頃から、異邦で生きてきた人がいるのだな、と思う。

ベトナム人向けの食料品店兼喫茶店のようなところにも入ってみる。ベトナム語でコンデンスミルク入りのアイスコーヒーを注文すると、「ああベトナム語が話せるのね」と、店の人に言われる。
a0153209_21345417.jpg
「少しベトナムに住んでいました。でも難しいですね」と返事を、調子に乗ってベトナム語でしてみる。

「ベトナム人の奥さん、いるの?」と、ベトナムを旅行していた折に、しばしば聞かれたことを、ベトナム語で聞かれる。懐かしいなと思い、事実を述べる。

アイスコーヒーを飲んで涼んだ。違うテーブルには、赤子連れのベトナム人女性3人がいた。店の人との会話を聞いていると、ホーチミン市出身らしかった。しかし、どうも旅行者のようでもある。

店の人が「オンセンに行きなさいよ」としきりに勧めていたから、そう思ったのである。

店の人は、30年ほど前、日本に来たらしい。出身は、これまたホーチミン市だと言っていた。鳥がさえずるような、抑揚のなめらかな南部の言葉を、これまた懐かしく思った。

店を出て、駅まで戻った。電車を待っていると、反対のホームに店にいた赤子連れの女性たちがいた。そのうちの一人、おそらく赤子の母である人が手を振ってくれた。片言のベトナム語を話す日本人に、優しいなと思う。

約10年ぶりにベトナムを再訪するわけだけれども、いい練習になった。

[PR]
# by tamaikoakihiro | 2017-08-08 21:29 | 雑感 | Comments(0)

記録の類、日報など

a0153209_20493490.jpg
日報の有無に関連していろいろと報道があるけれども、各種の記録であり公文書を見に行く機会があった。

竹橋である。

昭和中期の文書で、墨塗り部分も多い。公開にあたって、そのように配慮したのだろうと思う。BC級戦犯に関するもの。しかしある事件を少し調べれば、墨塗りに該当する人の名前は、すぐにわかる。

墨塗りにする意味なんて、あんまりないなあと思う。遺族や関係者のことを慮ってかもしれない。

しかし、例えば墨塗りの下にある人名を誤って推測した結果、よろしくないことが起こることも考えられる。(類推で、該当しない人を、ある戦犯裁判の該当者としてしまったり……)
a0153209_20572724.jpg
何もせずに公開してくれたほうが、よほどいいと思うけれども。

「後世の史家の判断に委ねたい」式の談話をときどき新聞で目にする。しかし記録の類をあったといったりなかったといったり、時々の都合で変えてしまうようでは、なあ。
a0153209_20591742.jpg
後世、誰も何も判断できないのじゃないかと思う。

現在における判断で、記録を失ったことにしてしまえば、その後、誰も判断できないし、そもそも事実すら認められなくなってしまうだろうに、なあ。

敗戦の頃、市ヶ谷では、記録を焼く煙が立ち上った、と何かの本で読んだ。


[PR]
# by tamaikoakihiro | 2017-07-22 21:00 | 戦犯裁判 | Comments(0)
『レイテ戦記』(大岡昇平・中公文庫)をようやく読み終えられそうだ。何度か挫折していたから、嬉しい。

戦史室にあるだろう戦闘詳報の類かと思えるほど、細部に入り込んだ戦闘経過の記述にはついて行けないこともある。

地理感覚に優れた人だったのだろうと思う。フィリピンの山野を実地で知らない私からすると、どこにどの部隊がいるのかわからなくなる。

東京に衛戌地のあった第一師団(通称号「玉」)が、レイテの決戦に敗れてから、セブ島に渡っていたとは知らなかった。

セブ島は、このところ夏休みシーズンを当て込んでか、自動的に表示されるネット広告でよく見かける。美しい海があるらしい。

たかだか七〇年ほど前に、レイテからセブへと渡ろうと、必死の思いで船を操っていた若者たちのことを、想像する。
自分が四十を過ぎても、当時、必死の境地にあった人たちのことは、なぜか相当に年上の人のことのように思える。
(実際には二十歳から三十歳代の人たちが多かったのではないかと推測する)

『レイテ戦記』で面白いのは、西洋の文学に親しんだ著者らしい、怜悧な分析が随所に見られるところだな、と思う。

例えば――

しかしその(当時の日本の:引用者)軍事力の基礎は国民である。
徴集制度は、近代の民族国家の成立の根本的条件であるが、それが政治と独立した統帥権によって行われる
場合、反対給与を伴わない強制労役となる。

なるほど、と思う。イデオロギーによって書かれた言葉というよりも、自らが下級兵士として戦った経験が言わせた論だと思う。



[PR]
# by tamaikoakihiro | 2017-06-27 22:13 | 作家 | Comments(0)
『証言その時々』(大岡昇平・講談社学術文庫)を読み直した。「群像」に寄稿した随筆があった。

「戦争を知らない人間は、半分は子供である」と、私は昭和二十六年『野火』の中に書いた。
これは私の書いたものの中で、評判の悪い句である。若い人の批判があり、私信で抗議がよく来る――とあった。

そのあとを読むと、「戦争を知らない同年配の人に向って、アイロニーとしていったつもり」だったことが書かれている。

そうだったのか。私は、てっきり、戦争を知ることなく、「反戦平和」に流れる戦後の風潮を皮肉ったものであり、
徴兵年齢に戦時中、達していなかったであろう若者に向けた言葉だと、思っていた。

しかし、大岡が会社員だったところからフィリピンの戦地に送られたように、普通の人が、ある人は戦地に行き、ある人は
いかずに済んだ現実が、やはりあったのだろう。

そして、大岡自身が戦地で大人になった、という実感があったのではないのだろうか、と想像する。
戦争ぐらいで人間の本質は変わらない、といったことを『証言その時々』の中の随筆に書いていたけれども、
そんなことではないかな、と思う。


[PR]
# by tamaikoakihiro | 2017-05-20 06:03 | 雑感 | Comments(0)
靖国神社に行ってきた。正確には中にある偕行文庫である。いま、この神社の名前を出すと、ウルトラ右翼みたいに、思われてしまうのかもしれないけれども、偕行文庫でしか見られないと思われる資料も、あるのだな。
a0153209_23334814.jpg
いつも(たぶん)カウンターに司書役の人が2人いるのだが、今日は1人が神職の装いだった。2、3冊の資料を見た。

平成の世も30年近くになるけれども、まだ戦地の記憶を持つ人たちが、わずかな数であっても、存命であることがわかった。

閲覧室には、自分の父親のことを調べに来ていると思しき老年の男性数名がいた。父親が戦地で亡くなった方も、今やけっこうな老境にあるわけだ。

外に出ると、桜が咲いているからだろう、たくさんの人がいた。日本人だけでなく中国人も多かった(ひょっとしたら台湾人だろうか)。
九州編成、通称号「冬」=第三七師団の戦友会が今から50年ほど前に植えたらしい桜の木があった。
a0153209_23330776.jpg
同師団の下士官だった方に、10年以上前、お目にかかったことがある。

北支から南下して仏領インドシナに至り、歩き通して最後はタイ、マレー半島で敗戦を迎えた部隊である。精強を誇ったと聞く。一号作戦(大陸打通作戦)といい、戦争末期にそのような大変な作戦を大陸で行っていたのである。迎え入れる側の仏印からは一号策応作戦というのを行った。一号策応作戦に参加した下級将校の方にも会ったことが、あるな。

冬兵団は、歩き通しで、糧食は現地調達を重ねたが、衣服はぼろになるに任せ、フランス領インドシナに入ったときは、あまりの身なりの汚さに、土地の人々が驚いたそうだ。この冬兵団で下士官だった方を鹿児島のお住まいに訪問した折、「何か覚えている安南語はありますか?」と尋ねた。

「ジョータイレン! ですね」
「意味は何でしょうか?」
「手を上げろ! ということです」

1945年3月9日の仏印武力処理の際「ジョータイレン!」と、敵方(フランス植民地軍)に向かって言ったらしい。戦闘意欲の低い安南人はさっさと手を上げて出てきたらしい。安南人は、フランス植民地の防衛のために血を流す意味なんて、それほど感じなかっただろう。

その戦いから約60年後の2005年。私はベトナム・ホーチミン市に移住していた。小さな会社で働いていた。ある日、路上の珈琲屋で、ベトナム人の友人に「ジョータイレン!」と言ってみた。通じた。げらげら笑われた。手を上げるポーズをとってくれた。

手を上げた友人――2人いた――のうち1人は、いま会社経営者である。もう1人は、正月の大学駅伝のスポンサーで知られるビール会社のベトナム法人に勤めていて、要職にある。

私たちは小さな会社で同僚同士だったが、全員そこを離れて、2人はスバラシイ経歴をつくっているわけだ。2人に共通するのは、ろくにベトナム語の出来ない私を気にかけてくれ、親しくしてくれたことである。忘れ得ないできごとが、たくさんある。

自分が異邦から来た友人にあそこまで親切にできるとはとうてい思えない。

大川周明は、アジアに派遣される自分の弟子たちに「正直と親切」の大切さを説いた。そして「1人でいいから現地で友人をつくりなさい」と話したという。「ほかに何もできなくていいから」と前置きして――

私は2人、得ることができた。僥倖だったな、と思う。ベトナムを離れて10年。今年こそ再訪できるだろうか。再会したいな、と思う。
a0153209_23342768.jpg
インパール作戦に参加した弓兵団関係者による献木もあった。祭兵団、安兵団、そして弓兵団。インパール作戦が語られるとき、必ずでる部隊である。



[PR]
# by tamaikoakihiro | 2017-04-03 23:38 | 戦犯裁判 | Comments(0)