大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro
「歴史はある意味で、いつも結果論であるし、思想はつねにイデオロギイとして機能するから」云々とあった。『近代の超克』(冨山房百科文庫)を読んでみて出会った、竹内好の文章。

そうだ、結果論で思うのは、いつも私自身、歴史を眺めていて「結果しか、自分の目の前にはないなあ」と当たり前なのだろうけれども、思う。

何の結果か。

それは大東亜戦争、戦後、太平洋戦争と呼ばれた戦争である。
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(植民地時代のサイゴンの地図)

すべてが、というわけでもないけれども、身の回りのことの多くが、戦争の結果だなあと感じる。

住まいの上空かなり低いところでアメリカの飛行機が飛ぶこと(たぶん横田基地に行くのだろう)、流行の音楽のたいていは横文字まがいだったりすること、隣国との関係が、どうも不安定なこと(隣国と円満な関係を築いている国は、あまり多くはないと思う、それはベトナムとカンボジアの関係とか、いろいろと見ればわかる)……

結果しかない世界で、育ってきたような気が、どうにもする。

80年代半ば以降の浮かれた消費文化の中、10代を過ごしたけれども、内需拡大を押しつけられた結果なのだろうとか。

良い本を、読むことができた、な。


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# by tamaikoakihiro | 2017-09-26 20:52 | 雑感 | Comments(0)
大東亜戦争が始まった翌年の1942年(昭和17)、サイゴン(現ホーチミン市)に日本の高等専門学校が開かれた。

「南方開拓」において、指導的な立場を果たす日本人を育成するためだった。


学校の名前は、南洋学院といい、主に旧制中学の卒業生が試験を受けて合格すると、海を渡った。修学は2年だったか。3期生まで学んで、敗戦を迎え、短い歴史を閉じた。

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(南洋学院の校舎。日本が接収する以前は、華僑が使う建物だった。この建物の南洋学院開設以前のことは、大川周明の弟子のひとりからも聞いたことがある。)

2004年、この学校の1期生から3期生まで、何人かの方に会って話を聞かせてもらった。

「校舎は残っているんです」と聞いて、旅行で行った折、さらに移住した折に何度か訪ねた。現在はベトナムの会社が使っているようだった。隣はトヨタのショールームで、修理のスペースは学校の敷地内に入っているようにも見える。

今回10年ぶりに訪ねて、撮影した。場所はサイゴンとチョロンの間である。記憶の通りの場所に、残っていた。安心した。
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(後方がY字橋)

南洋学院の生徒たちが「カドヤ」と呼んで繁く通ったという近所の食事や喫茶ができる店は、なくなっていた。夕涼みに行ったという、Y字型の橋「Y字橋」は残っていた。

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(写真は、当時税関だったという建物)

華僑街のチョロンにつながる大通りの高い樹木は、おそらく往時と変わっていないだろうと思われる。もし敗戦後もなくならず(それはムリな話だろうけれども)に存続していたら、「南方」をよく理解し、土地の言葉(ベトナム語)にも精通した人たちが多く、日本人として活躍していただろうと想像する。

上海にあった東亜同文書院の南方版とでもいえばいいのだろうか。同文書院か南洋学院かと考えたというOBにも会ったことを思い出した。
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# by tamaikoakihiro | 2017-08-25 16:51 | 南洋学院 | Comments(0)

敗戦、終戦、記念日

「終戦記念日」という言い方がある。

八月十五日のことである。敗戦といわず、終戦と言うことに違和感を覚える人は、ある程度、いるようだ。

小説家の古山高麗雄は、違和感をどこかで書いていたと記憶する。近くでは車谷長吉も書いていたなと思う。

そして「記念日」。記念日というと、何かおめでたいことに使われそうである。「結婚記念日」とか。

すると、敗戦は、喜ぶべきことだったのだろうかと思ったりする。(あの戦争にもし勝っていたら、浮かぶ瀬は無かったと、古山が対談で語っていた)

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(写真は十年以上前、ベトナムで撮影したもの)

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# by tamaikoakihiro | 2017-08-14 03:54 | 雑感 | Comments(0)

高座渋谷、いちょう団地


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小田急江ノ島線高座渋谷駅を降りて、東海道新幹線が下を走る道路を渡り、細い道を下った。「昼なお暗い」という表現がよくあてはまりそうな道には、街灯があって、それが点灯していた。左手に神社があった。

安いことで知られるスーパーを見てから団地の敷地内に入ると、よくこの団地を紹介するときに紹介される、数カ国語で記された看板の類を目にする。

バイヨン寺院の写真を看板に使った食料品店に入った。カンボジアのものばかりでなく、ベトナムやタイのものもあった。東南アジアの市場でかぐにおいがあって、懐かしい感じがした。お茶や調味料を買う。

店の人は、80年代に日本に来たということだった。自分がまだ10歳にもなっていない頃から、異邦で生きてきた人がいるのだな、と思う。

ベトナム人向けの食料品店兼喫茶店のようなところにも入ってみる。ベトナム語でコンデンスミルク入りのアイスコーヒーを注文すると、「ああベトナム語が話せるのね」と、店の人に言われる。
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「少しベトナムに住んでいました。でも難しいですね」と返事を、調子に乗ってベトナム語でしてみる。

「ベトナム人の奥さん、いるの?」と、ベトナムを旅行していた折に、しばしば聞かれたことを、ベトナム語で聞かれる。懐かしいなと思い、事実を述べる。

アイスコーヒーを飲んで涼んだ。違うテーブルには、赤子連れのベトナム人女性3人がいた。店の人との会話を聞いていると、ホーチミン市出身らしかった。しかし、どうも旅行者のようでもある。

店の人が「オンセンに行きなさいよ」としきりに勧めていたから、そう思ったのである。

店の人は、30年ほど前、日本に来たらしい。出身は、これまたホーチミン市だと言っていた。鳥がさえずるような、抑揚のなめらかな南部の言葉を、これまた懐かしく思った。

店を出て、駅まで戻った。電車を待っていると、反対のホームに店にいた赤子連れの女性たちがいた。そのうちの一人、おそらく赤子の母である人が手を振ってくれた。片言のベトナム語を話す日本人に、優しいなと思う。

約10年ぶりにベトナムを再訪するわけだけれども、いい練習になった。

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# by tamaikoakihiro | 2017-08-08 21:29 | 雑感 | Comments(0)

記録の類、日報など

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日報の有無に関連していろいろと報道があるけれども、各種の記録であり公文書を見に行く機会があった。

竹橋である。

昭和中期の文書で、墨塗り部分も多い。公開にあたって、そのように配慮したのだろうと思う。BC級戦犯に関するもの。しかしある事件を少し調べれば、墨塗りに該当する人の名前は、すぐにわかる。

墨塗りにする意味なんて、あんまりないなあと思う。遺族や関係者のことを慮ってかもしれない。

しかし、例えば墨塗りの下にある人名を誤って推測した結果、よろしくないことが起こることも考えられる。(類推で、該当しない人を、ある戦犯裁判の該当者としてしまったり……)
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何もせずに公開してくれたほうが、よほどいいと思うけれども。

「後世の史家の判断に委ねたい」式の談話をときどき新聞で目にする。しかし記録の類をあったといったりなかったといったり、時々の都合で変えてしまうようでは、なあ。
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後世、誰も何も判断できないのじゃないかと思う。

現在における判断で、記録を失ったことにしてしまえば、その後、誰も判断できないし、そもそも事実すら認められなくなってしまうだろうに、なあ。

敗戦の頃、市ヶ谷では、記録を焼く煙が立ち上った、と何かの本で読んだ。


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# by tamaikoakihiro | 2017-07-22 21:00 | 戦犯裁判 | Comments(0)