大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro

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書評のこと

翻訳の本をつくる編集者(の見習い程度)だった頃、担当させてもらった本が、書評欄で紹介されると、我が事のように嬉しかった、と言いたいのだけれども……

まずは「ああ、これで売れない本じゃなくなるかも」とほっと一息、救いに感じていたようにも記憶する。

4年間やらせてもらって、自分で「出したいです」と言ってやった本のうち、重版したものは一つもなかった。

センス、まるでないなあ。

退社して半年後だったか、担当したサイエンスノンフィクションの翻訳書が、ある賞をとったり、重版がかかったりしたのを知って、もう少し勤めていればよかったかなと思った。

しかしまあ、あの頃はベトナムにどうしても長期間行かなければならないと思い込んでいたから、「そんな長く休めるわけもなし、辞めちゃえ、辞めちゃおう」と思ったのであって、あれでよかったのである。

朝日新聞の書評欄で『戦捷小説家 古山高麗雄伝』が紹介された。

しかも『死なう団事件』という、ちょうどあの出版社を辞めてふらふらしている頃に、偶然読んで衝撃を受けた本を書いた高名の方に紹介してもらえて、幸運を感じています。

運がよかったと、改めて思う。十数年前、思い込みから会社を辞めて、あれも今の運につながっていると思うと、たいした年齢ではないけれども、感慨深いなあ。
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by tamaikoakihiro | 2015-10-28 23:02 | 作家 | Comments(1)

サイゴンの銀座、ホテル

ベトナムに住んでいた頃、飽かずに撮ったホテルがある。
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カチナ通り(現ドンコイ通り)に面したコンチネンタルである。住んでいる間にアイボリーから白に基調の色が変わった気がする。カチナは「サイゴンの銀座」なんて呼ばれていたらしい。

いつ見ても風格があっていいなと思っていた。サイゴン川に面したマジェスティックが男性的だとすると、女性的な感じがあったな。大東亜戦争中、マジェスティックが軍人御用達だったとか、そこで長勇が結構な存在感を見せていたとか、あれこれ読んだな。

コンチネンタルから教会の方に上がると確か右手に警察署があったと記憶する。たぶんあそこは大東亜戦争中、仏印の秘密警察、「探偵局」があったところで、「ははあ、ここか」と通る度に思った。

探偵局は安南人(ベトナム人)の独立運動家を取り締まるほか、日本が降伏すると、戦犯容疑者の摘発も行うようになったのだった。

そうだ、戦犯裁判だ。古山も作品で横顔を紹介している、敗戦時の第二師団長である馬奈木敬信が、サイゴンの戦犯裁判の模様を詳細に書き残している。文章は平明で、細部が彫り込まれている。

北部仏印で起こった「ハジャン事件」で死刑に処された軍人が二人、いる。彼らの処刑の模様も詳細に描いている。

射垜の前に立たされ、柱に縛られた二人が君が代を奉唱する。途中で射撃をしようとする仏軍側に、最後まで歌わせてくれと言う。訴えは認められたが、それでも途中で撃たれてしまう。

馬奈木は一連の模様をこう言っている。

「悲痛と云わんか悲壮と云うべきか、厳粛と言わんか将又荘厳というべきか全く表現する言葉がない」

刑場も、どのあたりかと、探したことがあったような気がする。

フートーの競馬場のあたりかなとか、いやチーホア刑務所のあたりかなとか、バイクでうろうろしたのだったか。

いや、うろうろしたのはチーホアの方だけで、フートーはただ競馬をやりに行ったのだったか。
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by tamaikoakihiro | 2015-10-22 23:54 | 作家 | Comments(0)

「文藝春秋」2015年11月号

月刊誌「文藝春秋」11月号の「鼎談書評」で『戦争小説家 古山高麗雄伝』が取り上げられていた。
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誌面に従って評者の方のお名前を書き出してみる(敬称略)。山内昌之(歴史学者・明治大学特任教授)、片山杜秀(政治学者・慶應義塾大学)、篠田正浩(映画監督)。

『戦争小説家 古山高麗雄伝』は「アウトローの目線で戦地を見つめた男」という見出しのもとで紹介されている。
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無上の喜びとはこういうことなのかと思う。そして不勉強の数々を指摘してもらったことにありがたさを感じつつ、「冷汗三斗」の言葉が頭の中を回る。

文章を書いてみたいな、と思った頃、それは多分高校生の終わり頃だったのだと思うけれども、誰が読者なのか、などとはまったく考えもしなかった。

それは小説を書いてみたいな、と妄想を転がしていた頃も同じだった(と記憶する)。

しかし今は、少し違うと思っていて、誰に読んで貰いたいかというのは少し、考えられるようになった。

ただこれは、文章の技量だとか取材・調査の力とは無関係だから、上述のように恐ろしい不勉強も、やっぱり気づかぬまま、書き進めてしまう。過誤は取り消せないもので、ただ非力を嘆き、次はまともに、と思うしかない。

こういう反省は、しようと思っても、自分からなかなかできるものではないのだろうから、取り上げてもらえたのは、とてもありがたいと思う。本当にありがたく、得がたい機会を頂いたのだなと思う。
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by tamaikoakihiro | 2015-10-11 21:22 | 作家 | Comments(0)

貧窮、軍隊、実生活

「渋民と北海道におけるこの二三年の、骨に徹するような、窮迫と漂浪の生活は、かつての浅薄な天才気取りの少年を、沈痛にして真摯な一個の思想家に一変させたのである」(『啄木の悲しき生涯』杉森久英)
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石川啄木のことはあまりよく知らないのだけれども、高校の音楽の授業で歌う機会のあった「砂浜の砂に……」というものは記憶にある。

『啄木の悲しき生涯』は、早熟な天才の傲慢の様を遠慮なく書いている。そして実社会であがく(金を得ようと)中での成長に言及する。

なお啄木は貧しい家に生まれたわけではない。「石川一家のように、かつては村の小貴族として豊かな生活をしていた」と同書にはある。父は寺の住職であったが、理由があってその地位を追われたらしい。

古山高麗雄のことを思った。

古山は植民地朝鮮の富裕な開業医の子息として生まれ、不自由のない少年時代を送った。上京して浪人生活を送った東京、第三高等学校の生徒として過ごした京都、退学後に舞い戻った東京のそれぞれで放埒な生活をしたと自ら何度も振り返っている。

仕送りを蕩尽して貧窮したというのだけれども、それは金持ちの子息だからできる貧窮であったといえるのだろう。

階級社会の軍隊では、農村出身の屈強な仲間たちに囲まれて自らの貧弱を痛感した。

敗戦後の日本では、生活のために働く中で、世間を渡るための術を使わなければならなかった。

「窮迫と漂浪の生活」は、古山の場合、戦前・戦中での東京、京都でのこと、軍隊での大東亜転戦と戦犯体験、戦後の暮らしを立てる苦労であり、それらが彼を「沈痛にして真摯な一個の思想家に一変させた」のかな、と想像する。

いずれにしても天から授かった才能だけで、世に立つことは、難しいのだろう、と思わされる。まあ、授かった才能があるからこそ、苦労を味わうことになる、とも言えるかもしれないのだけれども。

才能というのは、まあ、恐ろしいものだな。
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by tamaikoakihiro | 2015-10-11 11:09 | 作家 | Comments(0)

勉強

『戦後文壇覚え書』(杉森久英・河出書房新社)の中で、「勉強というものは日のあたらないところでするものでね」と杉森が語っている。続けてこんな風に。「朝から晩まで、自分よりもすぐれた人だとか、賑やかな環境の中であるきまわっていたんじゃね」

まだまだこれから沢山読んでみたい作家だけれども、『天才と狂人の間』『夕日将軍 小説・石原莞爾』といった評伝は面白いし、『アジアの憂鬱』『昭和史みたまま』などの随筆も面白いなと感じる。

古書店に猛烈に注文したのだけれども、本棚が限界に近づきつつあることが残念。

杉森は熊谷中学で教えていたという。今の熊谷高校にあたるのかな。夏、熊谷に行った時点では、そんなことも知らなかったから、街を眺めても何も思わなかった。

残念なことを、したものだ。知らないと、もの思うことも、できないわけだ。
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by tamaikoakihiro | 2015-10-10 01:41 | 雑感 | Comments(0)
通っていた高校の近くに有名な鰻屋があって、うまいことは当時から知っていた。

野球部の先輩から聞かされたのだったか。

在学中はもちろん行く機会なんてなかった。今年八月、行ってみたら、ひどい混雑で同行の方に大変な迷惑をかけてしまった。

高校の近所には、500円で山盛りの焼きそばを食わせてくれる駄菓子屋があったな。野球部の練習が終わったあと、ときどき行くのが楽しみだった。

店番をしている年輩の女性(おばあちゃん)がいた。「釣りが50円のはずなのに500円が返ってきた」なんて噂もあったけれど、すてきな店だった。

今もあるのだろうか。

制服がなくて、校則もなくて、進学実績をあげようとがんばる教員もいない公立高校だったから、精神的には気楽だった。

ただ「何の束縛も感じなかった」というと嘘になる。

教室から体育館に入るとき、上履きを「体育館シューズ」というのに替えなければならないのだけれども、横着して普段から体育館シューズを履いていると、屈強(そう)な体育教員に怒鳴りつけられる、というのがあったな。

あれは束縛だ。いいじゃんか、どうせ鳩の糞で汚れまくっている体育館なんだしさ、と。

男子校だったのは良かった。着るものに頓着しなくて良いし、汗臭さだとか自分の分泌するいやなものすべてを気に懸ける必要がない。

音楽の女性の講師には、みんなが疑似恋愛していたようだった。ああいうのも、恥ずかしい記憶として貴重だな。

ただ野球だけ、やっていれば、まあ、幸せを感じ、また不幸せも味わえたのだったなあ。

そうだ、同級生との、ちゃんとした付き合いは、京都方面に棲みついたSさんとしかない。

だからか、Sさんとたまに会うと、当時のことを思い出して、いろいろ話が尽きない。Sさんは、吹奏楽部だったから、その方面の友人といまも付き合いが多いらしい。実にうらやましく感じる。

野球部では控え選手だったから、どうもレギュラーの同級生と懸隔を感じていて、その感覚は今も残っているのだな。

それもあって、本を読むようになったのかもしれない。そして本を読んで文章を書くことについては、Sさんの姿勢に、当時から触発されることが多かった(と思う、大げさだけれども)。

いい同級生に会えて、幸運だったなと思う。

高校のことをあれこれ思い出したのは、ノーベル賞を受賞した方が、同じ高校のだいぶ上の卒業生だったと、先ほど新聞で知ったから。

高校時代を思い出して、あの恥ずかしくも何か愉快で、昂揚と陰鬱が入り交じった不思議な感覚が、みぞおちのあたりでもぞもぞしている。
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by tamaikoakihiro | 2015-10-07 22:10 | 雑感 | Comments(0)