大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro

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歩き

西荻窪駅北口を出て歩いてその大学まで行った。炎熱で汗が噴き出した。たぶんこれまでで初めて女子とつく大学に入る経験だったが、守衛さんに来意を告げると、行き先の校舎の位置を丁寧に教えてくれ、無事目的の校舎に辿り着いた。

構内は人影がなかった。低層の洋風の建物を見ていて思い出していた。そうだ、あの作家が一時期を過ごしたサイゴンの兵営。あのマルタン兵営というのは、私がベトナムに住んでいた折には、大学の校舎として使われていたのであった。

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お目にかかった方は、あの作家にまつわる記憶を、実に印象的に語って下さった。そうそう得られる機会ではないのである。ありがたいことだと思いながら辞去した。

「私はビルマに運ばれたが、運よく生き残った。そしてビルマを懐かしく思い、再訪している。おかげさまで、ビルマに知人ができた。狂った将軍のおかげさまで……。」
(「遙かなる雲南戦線」古山高麗雄)
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by tamaikoakihiro | 2014-07-26 20:32 | 作家 | Comments(0)
1998年、日本が春の頃、カンボジアを訪ねた。プノンペンで銃撃戦があっただの、強盗がどうのと、物騒な話をバンコクでたっぷり聞かされていたものだから、臆病に空路でシェムリアップに入った。

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子どもの頃、アンコールワットを「発見」したフランス人の話だったかを漫画で読んでいたから、森に沈むように立つアンコールワットを近くの山(プノンバケンだったかな)から眺めたときは、心底興奮した。

緑に囲まれた石の寺院の壮麗さは、日本の古刹には感じなかった、何というか、神秘のようなものを催させたのだったなあ。

何年かして、ベトナムに短い間だけれども住み、その折「おおバスでいけるじゃんか」と気軽にホーチミン市からバスに乗ってシェムリアップを再訪した。

かつて泊まったゲストハウスを眺めに行ったけれども、妙に古ぼけてしまっていて、近づくのは止めた。アンコールの寺院群を見て回って、以前のような感興は近づいてこなかったものの、やはりいいものだなと思った。

有り余る陽光と灰色の寺院の対比は、いつ思い出してもいいものだな。

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そして今、カンボジアに縁のあった作家のことをあれこれ調べたりしている。あの作家はプノンペンに主にいたわけで、シェムリアップには来ていないはずなのだ。

作品中でカンボジア人のことを「カンボちゃん」と、主人公の兵隊が言っていたなあ。
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by tamaikoakihiro | 2014-07-23 22:46 | 作家 | Comments(0)

病院の前

神戸に住んでいたのは、あの人工島ができて間もない頃だったと思うのだけれども、いろいろ周りにあるものが目新しく、それまで住んでいた埼玉の田舎に比べ先進的だった記憶がある。

自動改札を初めて見たのもあの島に行く新(!)交通システムの駅でのことだったなあ。やたらと新しく、1980年代なんて日本中だいたい同じだったとは考えるものの、あの島はキンキラキンに明るい感じたした。なんだかすべてが明るかった。

博覧会なんて賑々しいものもやっていたし、出向いた会場で迷子になったときのために書かされる紙に、父親が自宅の電話番号を書けなかったのも、軽い衝撃であった。
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(写真は内容に無関係。サイゴンにあった建物)

山を削ってその土で埋め立てた、というなんだか嘘っぽい由来の島は、夏になるとちゃんと蝉が鳴いた。島をつくるときの過程は、「北公園」という素っ気ない駅の近くにたつビルの上の階の展示室のようなところで、ミニチュアで再現してあった(と記憶する)。

蝉が鳴くのは、削ってきた山の土のなかに蝉の幼虫がいたからだろうと、誰かが言っていて、それを聞いて真に受けた。まあ実際がそうだったのだろう。

島を離れて10年後、大地震で韜晦した建物の群れをテレビで見て、現実離れしているから何とも感想も浮かばなかった。

たまにGoogleのストリートビューで見ると、あの人工島で過ごした数年間を思い出して、どうも焦るような懐かしさに駆られる。埼玉にはまったく懐かしさを覚えないから、何か特別な時間だったのかもしれないと思う。

といって再訪したとしても昔の知り合いなんて一人もいないのだが。ああそうだ、自宅に最寄りの駅は「市民病院前」という名前だったはずだけれども、今はもうそれが変わっているらしい。
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by tamaikoakihiro | 2014-07-13 19:21 | 雑感 | Comments(0)

旧制中学

高校で野球をやっていたころ、OBで、その学校が旧制中学であった時代に活躍された方が練習を見に来ることがあった。20年ほど前のことである。80歳くらいにお見受けした。

その方は卒業後、草創期の職業野球に進まれたと聞いた。東京セネタースに在籍されたのだったか。あの旧制中学からは二人、職業野球の選手が生まれたのであった。立派な「野球部史」を図書館で見つけ、読んだ記憶もある。

当時は戦前のことになんてまるで興味がなかったから、いろいろ聞いたり知ったりしたこともほとんど忘れてしまった。

あの方の話では、極寒の中、練習をして、そのあと飲ませて貰った紅茶がうまかった、という挿話をなぜか、よく覚えている。

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戦後、その方は母校(私の母校でもあるんだが)の監督として、昭和30年代に甲子園に導いている。部室のロッカーにほこりを被って甲子園でのスコアブックが残っていた。対戦相手は九州の名門・鎮西とあったと記憶する。(写真は内容に無関係の、仙台・榴ヶ岡公園)

ああ、そうだ、そのスコアブックを見つけたとき結構な興奮を覚えたのであった。でもそこから歴史を掘り下げたいとか、そんな気持ちを持たず、ただ興奮したのであった。

自分の性向なんて、10代では、うまいこと、定義づけられないんだなあ。

それから10年後、戦争の時代を調べ始めたとき、お目にかかった一人は、母校を旧制中学時代に卒業された方なのであった。

以上のようなことを思い出したのは、『幻の甲子園 戦時下の球児たち』(早坂隆・文春文庫)を読み出したからだろう。

どれくらい貴重な機会を自分はこれまで見逃してきたのか、と感じる。率直に、自分の疑問や感興を伝えていれば、誰かが教えてくれたはずだろうなあ。

そろそろ甲子園の予選が始まるなあとも思う。ベンチでふてくされていた自分を思い出すと、何とも恥ずかしい。
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by tamaikoakihiro | 2014-07-06 10:08 | 雑感 | Comments(0)