大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro

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中津河畔

大川周明終焉の地を訪ねた。小田急線本厚木駅からバスに乗って約30分。局前という素っ気ないバス停で降りて歩くこと5分くらいか。中津川への視界を遮る雑木林を前にした道路に面して立派な門がある。道路は昔、中津往還といったらしい。

この場所から、大川周明は東京裁判の市ヶ谷に向かった。

熊坂半兵衛という土地の有力者が100年ほど前に立てた立派な家だった。案内を乞うたところ、受付をしている隣家の女性が親切にいろいろと教えてくれた。

関東大震災もこの前の震災にも少しの動揺もなかったらしい。建具は建てられたときと同じものだという。

大川塾生が戦後、中津のお宅、と呼んで結婚相手や子供と連れだって訪れたところである。縁側で弟子たちと写真に収まる大川周明の姿を何かの資料で見たが、その縁側はこれだろうと見当をつけて写真を撮影した。

私以外、訪問者はいなかったが、あれこれ想像すると、寂しい感じはなかった。蝉の音がやかましく、66年前の夏もこうであっただろうと思った。

やがて彼が亡くなったとき、大川塾生の代表が弔辞を読んだのだけれども、そのなかに「中津河畔閑寂の地」とあったが、そんな静けさが、恐らく彼の亡くなった冬の季節には、十分に感じられるところだったのだろう。

あれこれ感じたり見つけたりしたことがあったなあ。

速やかにあっちにまとめよう。
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by tamaikoakihiro | 2011-08-22 21:57 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

崖を見上げる

通勤の途中、目黒駅を出た山手線から品川に向かって右の方を見ると、崖が目に入る。その崖っぷちに白い建物がある。杉野学園の建物なのだが、そこにかつて東亜経済調査局附属研究所(大川塾)があって……と考え出すと、座れない苦痛もだいぶ和らぐ。

大川周明は東京が空襲を受けた後、上海から帰国し、山手線から見た学舎を見て安心したと、どこかの資料で読んだ。

私はそこにない建物を、今ある建物を見て想像するわけだ。

ベトナムに住んでいたとき、借りていた部屋のある3区から市中心部に出て行く際、しばしば裁判所の前を通った。フランス領時代の建物がそのままで、かつても今も裁判所なのだった。

通るたび、そこで戦犯裁判の刑を宣告された古山高麗雄のことを想像した。さらに市の中心部に行くと、探偵局のことを思った。

カチナ通り(ドンコイ通り)には、かつて探偵局(シュルテ・特高のようなものか)があったと古山は書いていて、それと思しきものを探すと、現在のベトナムの警察、公安の大きな建物が、それもフランス領時代を思わせる姿であるのだった。

今ないものを今あるものから想像したり、今あるものから昔を想像したり、まあ終わりのない話ではある。さてさて、しかしやることはたくさんある。
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by tamaikoakihiro | 2011-08-09 22:34 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

北部ベトナム残留

ベトナムに住んでいたとき、最後のベトナム残留日本兵の方に話を聞かせて貰っていた。そのときのことを、思い出した。確か私が帰国してからそんなに経たずに亡くなられたのだった。

ベトナム残留日本兵のこと調べたら、その方のことに、誰もが行き当たるというくらい、よく知られた人だった。ベトナム戦争中、日本の新聞記者とも仲が良かったそうだから、それはそうなのだろう。

お住まいはサイゴン中心部から泥色の運河を渡って行った先にあって、細い路地のつきあたりのこぎれいな建物だった。

深くは伺わなかったが、どういうわけかベトナム人の一家とともに暮らしていた。私がバイクで訪れ、Oさんはいますかと玄関口で挨拶すると、若いベトナム人の男性が丁寧にいつも応対してくれるのだった。

通されると、Oさんはしばしば二階の自室にいらっしゃって、数人でテーブルを囲んで花札のようなものを楽しんでいた。

そんな団らんのひとときを邪魔して話を聞かせてくださいとは、何ともぶしつけな話だったはずだけれども、Oさんはいろいろとご自分のことや亡くなった友人のことなど、話して下さった。

友人の一人は、大川塾生だった。

意外だったのは、ベトナム北部で残留していた頃(ベトナムの南北分断前)、サイゴンの高専、南洋学院卒業生のKさんと、ハイフォン郊外で会ったことがあるということだった。

Kさんなら知っていた、いや面識はもちろんなかったけれども、日本で一度、Kさんの家に電話をかけて、亡くなったKさんの日記があると聞いているので、もしよければ見せてもらえないかと、奥様に尋ねたのだった。

しかしないとのことだった。

その日記のことを、Oさんに話したときだったか、記憶が定かでないが、亡くなったノンフィクション作家、角田房子さんがどこかでその日記をもとに書いていなかったかな、といったようなことを聞いたと記憶する。

Kさんはベトナム北部残留時はフランス植民地軍にいたから、フランスに縁があって、角田房子さんも確かフランスにゆかりのある人で……

とあれこれ想像しながら、Oさんのお住まいを辞去したこともあった。

帰りはいつも、Y字橋、というその名の通り、Y字型の橋を渡って帰った。そこは大戦中、南洋学院の学生たちが夕涼みにいつも散歩したというところなのだった。
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by tamaikoakihiro | 2011-08-05 23:27 | 雑感 | Comments(0)