大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro

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国難

国難という言葉をよく最近は聞く。地震による被害を指しているのだろう。この言葉は、そうだ、戦争中の記録を読んでいると頻出する。

多くの人がすでに指摘しているけれども、今の状況は戦争中の雰囲気を想像するに、ある意味で好適かも知れない。

「被災地の人たちをを思いやろう」

「戦地の兵隊さんを思」ったり、華美な消費などを控えようというムード、これは「パーマネント禁止」などといった引き締めがあった時代に、何となく類似していると思えなくもない。

根底にあるのは、現在は電力不足、かつてはあらゆる方面での資源不足だったのだろうから、一概にすべてを類似で片付けられないだろうけれども。

しかし困難にあたって、「国民一丸に」となるのは悪いことでもないのだろう。

ではあの戦争のとき、国家総動員体制(これも戦後は評判がよろしくない)をしいたことは果たして間違いだったのか。

いろいろと考えると、わからないことばかりになる。
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by tamaikoakihiro | 2011-03-29 07:07 | 雑感 | Comments(0)

カンボジアでのこと

カンボジアに最初に行ったのは、1998年春。少し前に首都プノンペンで銃撃戦があったとかで、タイから飛行機で入国するとき、ずいぶんびくびくしていたものだ。

背の高いサトウヤシが立ち、赤い土の広がるカンボジアを機上から眺め、感動したのだった。

アンコールワットのある町で、数歳年上の男性で知り合った。そのとき1週間くらいを同じ宿で共に過ごしただけだったが、帰国後手紙やら電話やらでお付き合いがしばらくあった。

その後、連絡をとらなくなってしまった。ただ表情や話し方は今も思い出せる。

たった1週間だが、そうなのである。

60年以上前のことを、伺うとき、非常に鮮明に語って下さる方がいる。その方にとって、忘れようのない事柄だとさらにそうなる。

ある方は、泥色の大河の対岸が爆撃され、同期生の身を案じた時のことを悲しそうに、辛そうに語ってくれた。翌日渡河して四方に祈り、その場を去ったという。私は聞きながら、ビルマの大河の前で立ちつくす、その方の若い頃の姿を思い浮かべていた。

青春の記憶、というのだろうか。

我が身のカンボジア体験から、そのあたり、「何故に鮮明なのか」が少しわかる気がする。
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by tamaikoakihiro | 2011-03-28 07:01 | 雑感 | Comments(0)

住まいのこと

ある本を読んでいたら、ベトナムの流浪の王族、クォン・デの戦中の住所が記述されていた。何となく散歩で行ったことがあるような場所だったから驚いた。

今度行ってみようと思うのだが、本当に変哲のない住居が建っていそうな気がする。

東京は思えば革命の都だったのである。周恩来、クォン・デ、孫文などなど、祖国で受ける難を逃れ、ここで革命の方策を練ったのだ。

そんな事実も、どんどん風化していくのだが。
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by tamaikoakihiro | 2011-03-25 16:15 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)
『金子光晴の旅 かへらないことが最善だよ。』という本を読んだ(というより眺めた)。金子の本は、何冊か読んだことがあったからその記憶を辿りながら。

写真家の文章と金子の文章が入っていて、後者の中に「関東大震災で日常が危ういことが露呈した」といった意味にとれる一節があった。正確な文章は、今手元に本がないからわからない。

今回の震災を見ていると、日本の安全や利便性が、薄皮一枚で凄絶な危険と隣り合わせであることが感じられる。
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by tamaikoakihiro | 2011-03-16 06:55 | 雑感 | Comments(0)

明号作戦

今日は明号作戦の日である。1945年3月9日夜、仏領インドシナで始まった軍事作戦で、これによってフランス領インドシナは解体された。日本軍がほぼ一夜で宗主国の軍隊を追い払ったことになる。

秘匿号は「マ号作戦」が最初だった。当時の司令官の苗字の頭をとったという。その後なぜ「明号作戦」となったかはわからない。

「あきらごう」と回顧した元将校の方がいた。別の当時現地にいた方は、「めいごう」と読んでいた。

どちらなのか、わからない。

現地軍の司令官あたりに聞けばわかったのだろうが、当時のインドシナ派遣軍司令官はもう亡き人である。

そんなとき、古山高麗雄の短編を思い出す。戦友会で、第二師団の師団長だった馬奈木敬信中将に会った話を書いていた。

戦後、だいぶだってからの時の作品である、もちろん。

「今度、馬奈木閣下に会ったら聞いてみようか」と、古山は書いていたと記憶する。

明号作戦の夜、彼が何時何分に、プノンペンの王宮の壁を上ろうとしたのか、という疑問を解くために彼は、師団長に借問してみようかというのだった。

その日から66年ということか。
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by tamaikoakihiro | 2011-03-09 08:06 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

興亜観音

支那での戦争で亡くなった日中双方の人々を慰めるため、A級戦犯として処刑された松井石根大将が戦中(退役後)に建てた、興亜観音というのがあるそうだ。

実物はまだ見たことがない。

極左武装勢力、東アジア反日武装戦線がこれを爆破したという。

松井はアジア主義者だった。ベトナムの独立運動を支援していた。日本名として「南一夫(みなみ・かずお)」を名乗っていた、亡命王族クォン・デとの関係は深かったようだ。

1943年、まだ仏領印度支那の主権がフランスにあるときこの地を訪れて、「安南人は独立の準備をせよ」とアジってフランス人の反発を招いた。

しかしアジアが独立するのは当然の権利である。その当然の権利の行使に向けて鼓舞すると、「帝国主義者」とか「侵略者」の文脈で見られてしまいやすい。

それが戦後の日本なのだ。
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by tamaikoakihiro | 2011-03-07 12:01 | 雑感 | Comments(0)
毎年、3月上旬は想像することが多い。一つは日本軍が仏印政府を解体した「明号作戦」があった月だからである。3月9日、例えばある大川塾生は、中部の王都フエの城内に安南服で忍び込み、バオダイ皇帝の身柄確保を目指した。

また作家・古山高麗雄はプノンペンでシアヌーク国王の身柄確保を行う部隊の一員として行動した。

鹿児島出身のある下士官は、北部仏印で「ジョータイレン!」と仏印軍の安南人に一喝し、投降させた。

フランスの支配が長く続いた中で、ほとんど一晩でそれを解体してしまったのだから、驚きは安南人(ベトナム人)の間で大きかったようだ。

息を潜めて決行の時を待っていた若者たちの姿を想像すると、それだけで時間が過ぎる。
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by tamaikoakihiro | 2011-03-03 07:36 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)