大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro

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鹿児島の思い出

鹿児島の桜島はいま冠雪しているらしい。鹿児島在住の方からお便りを頂戴して、そこにそのように記されていた。その方は、戦時中サイゴンにあった高等専門学校、南洋学院一期生である。著作物も数冊お持ちで、私にとっては大先輩にあたる。

二度、以前お目にかかるために鹿児島に伺った。二度とも、桜島を望見する市内のホテルの喫茶室にお招き下さった。私は市中心部から市電に乗って数駅のところで降りて、ホテルへ向かった。帰りはたいてい夕方で、赤く焼けた桜島を眺めるのは、この上なく幸せに感じられた。

サイゴン時代のお話をうかがう中で、お務めになった日南造船という、大南公司系の会社に不思議な老人が出入りしていたことを教えてもらった。ちょっとした情報工作などしている方に見えたようである。

大南公司社長・松下光廣がベトナム独立運動支援をしていたことは、すでに知っていたから、非常に興味深く思った。

さて、自分の書き物の完成を急ごう。よい師匠は、自分の心がけ次第で得られるのだ。
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by tamaikoakihiro | 2011-01-31 20:53 | 南洋学院 | Comments(0)
引っ越しをすることになって荷物を整理していると、思わぬところから「こんな資料、すでに入手していたのか!」と感じるものがたくさん出てくる。満州国治安部の官吏から転じて戦前からバンコクで工作活動にあたっていた五嶋徳二郎のことを書いた資料が出てきたのはありがたい。

五嶋のことは、まだよく理解していない。ただ大川塾二期生のある方が、戦後に五嶋の娘と結婚しており、戦前・戦中と戦後をつなぐ線のようなものを、勝手に想像している。

五嶋の名前は、さる著名なノンフィクション作家の著作の中にも出てきたことを記憶しており、これから少し、また調べてみようと思っている。
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by tamaikoakihiro | 2011-01-31 08:15 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

「偉大な師に出会って」

大川周明の弟子たちは、彼との出会いで人生が変わったのだろう。田舎から大東京に出てきて、そこからまたアジアに派遣された。東亜経済調査局付属研究所(大川塾)の人たちのことである。

ある方は「偉大な師に出会って僕の人生は変わったね。ことによったら田舎で百姓をしていたかもしれない。でも人生、お金だけじゃないんだよね」と仰った。

その方は長男で、家を継げばよかったのだ。それがどうしたことか、大川塾に入り、戦争中はシンガポール、ビルマと歩いた。

インド独立の闘将、チャンドラ・ボースの護衛を務めたこともある。

そういう世界への広がり、歴史的瞬間への接触が、東京の品川区上大崎の地での教育から生まれていた。
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by tamaikoakihiro | 2011-01-27 23:03 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

反骨の人

戦時中、ビルマで青年運動に関わった東亜経済調査局附属研究所(大川塾)二期生の方の手記を読んでいる。お話を伺った折には聞き出せなかった細部まで記されており、自分の取材力のなさに少なからず情けない思いをする。

一方で、文字にして残してくださっている方々のありがたさを、私のためにというわけではないのだが、感じる。

件の大川塾生は、直情径行型とでもいうのだろうか、タイで領事館に勤務していたときは、上司が大川周明をけなすような発言をしたと聞けば、憤然として談判し、領事館勤務を放棄してしまったのである。

またビルマでは同志のビルマ人に共産主義活動で嫌疑をかけてきた憲兵隊に、堂々と「逮捕状を持っているのか」とすごんでみせ、追い返している。

とにかく「アジア解放」という師の考えが頭にこびりついていたのだという。

そういう話を聞いて、私はまた自分にとってのアジアとは、と思う。

結論は出ないのだけれども。
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by tamaikoakihiro | 2011-01-26 07:57 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

名前を残して

戦史資料室で閲覧したビルマ独立義勇軍(BIA)の基礎資料、「南機関外史」をデータ複写で先日受領。そこに並ぶ大川塾生の名前、名前。民間のある組織から、あれだけまとまった人数が参加したのは、BIAの中でも異色なのではと思う。

だからこそBIA参加の軍人(尉官・左官クラス)の戦後の回想記に、大川塾の名前が出てくるのだろうと想像する。その回想記とは、『ビルマ工作と謀略将校』(山本政義)である。

「南機関外史」では、大川塾生に下された命令も読むことができ、その行動も克明に記されており、興奮する。

タイとビルマ国境の密林、山岳道を踏んでいく大川塾生の姿を想像する。

彼らの見る先にはビルマがあり、独立ビルマの未来があったわけだ。

以前、ブログで書いたように、なぜか『ビルマ工作と謀略将校』では、大川塾は「大東亜塾」となっている。

考えてみれば、大川塾は大東亜の解放を志向した教育機関であり、そうなれば別称として当時、流通していたとしてもおかしくない。

とはいえだいたいにおいて、現地では大川周明博士の弟子、と認識され、東亜経済調査局附属研究所の名前で呼ばれることはなく、「大川塾」の通称で通っていたわけだが。
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by tamaikoakihiro | 2011-01-25 08:07 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

訃報について

私が仏領インドシナ(ベトナム、カンボジア、ラオス)、そして南方に関心を深めるきっかけとなった最初の取材でお目に掛かった方が、昨年半ばに急に亡くなっていたことを、昨日知る。

初対面は2004年6月だったと記憶する。

その方は戦争中、サイゴン(現ホーチミン市)にあった日本の高等専門学校、「南洋学院」の三期生だった。

取材時に訪れたのは同期生の方が営む弁護士事務所だった。

その方(Tさん)は、厳しい面持ちの人で、初めて取材というものをする私は緊張した。

ただ話をうかがっていくと能弁で、知人もたくさん紹介してくださった。

本当に、私の「南方関与」のスタートを支えてくれた方だった。

東亜経済調査局附属研究所(大川塾)のことを紹介してくださったのもこの方だった。

世田谷・赤堤にあるゴルフ練習場で「ベトナム会」という会を時折催していらっしゃって、私はそこで元外務官僚(ベトナム通)の方にもお目に掛かった。

その方もまた亡くなってしまった。

いろいろと貴重な出会いを与えてくれた方なのに、ベトナムに住んで、帰国してから一度もお目に掛かっていなかった。挨拶さえしに出かけなかった。

取材者として怠慢というほかない。

08年にTさんからあることでメールで叱責され、私は自分の不明を恥じた。

それなのにお詫びにさえ伺わなかった。

会える人には会えるうちに会わないと当然会えなくなる。
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by tamaikoakihiro | 2011-01-20 09:31 | 南洋学院 | Comments(0)

南進論者

海軍こそ南進に積極的だったという話を、最近ようやく理解し始めた。その南進を強く主張する海軍の軍人に中堂観恵という人がいた。タイで武官を務めたような人である。

この人について、少し調べてみると、有益な情報があることがわかった。

何しろ大南公司の松下光廣と懇意だった人物である。何かがわかれば面白い。
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by tamaikoakihiro | 2011-01-06 23:59 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)