大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro

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戦争の行方を見る人たち

日支事変は現状では完全なる失敗であり、独り中国共産党のみが最大の成功を収めている――

そんな講話を、東亜経済調査局附属研究所、通称大川塾で行った人物がいる。南京を攻略して日本中が提灯行列などして浮かれている頃のことだ。

講話者は、大川塾で英語を担当し、その後上海の領事館に勤務した人物である。

大川周明は、蒋介石と袂を分かった汪兆銘と組んだ日本の中央部には批判的だった。

彼のもとで若者に語学を講じた人物も、実に冷静に支那事変の情勢を見ていたようだ。
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by tamaikoakihiro | 2010-08-30 21:39 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)
仏印進駐の頃の本や雑誌を見ていると、しきりと「南方華僑の問題」が指摘されている。

つまるところ、蒋介石派の華僑が日本軍の進出する地域で抗日活動を行っている云々の話になる。

大東亜戦争は、ハワイ奇襲とマレー作戦に始まるが、後者はそれ以前の仏印進駐(南方進出)があってこそ遂行しえたもの。

そしてその南方進出は、実は蒋介石率いる国民党との戦いの延長戦だった。

そんな当たり前の事実を、資料を眺めていると、体感に近いレベルで知ることができるから面白い。
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by tamaikoakihiro | 2010-08-28 13:33 | 雑感 | Comments(0)
湾岸戦争の時、古山高麗雄は随想で「戦争はテレビゲームではありません」と連呼するマスコミについて、批判的なことを書いていた。

スカッドミサイルだのパトリオットミサイルだのトマホークだの、飛び道具がたくさん出てきて「ピンポイント爆撃」なんていう言葉もあった気がする。

そういうものの映像を、使ってテレビは番組をつくっていた。

しかし、といった感じで古山は書いていた、「あんたたちがテレビゲームのように見せているのではないか」と。

テレビゲームのように見せておいて、テレビゲームだと思ってはいけないと、道徳的なことを言い出すことは欺瞞ではないか。そんなことを古山は書いていたように思う。

作品の名前は忘れた。

彼の作品を愛好する者として、時々思い出す。

彼の皮肉は穏やかだが、本当に痛みを感じさせるものだ。

それは彼が戦中重ねた苦労の末に発している言葉だったからなのだろうと想像する。
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by tamaikoakihiro | 2010-08-28 07:34 | 雑感 | Comments(0)
越南の亡命王族、クォン・デという人のことは、ドキュメンタリー映像作家の森達也氏が著書で広く知られる機会をつくった。

「東京人」に拙稿を掲載してもらった際には、東亜経済調査局附属研究所、通称大川塾と彼との関係を紹介した。

一期生の寮日誌を読んでいると、やはりクォン・デのことが出てくる。

「上大崎の大川所長邸を訪ね、所長と夕食を共にして、座談の中に、亡命安南王族クォン・デ候(日本名・南一郎)とその同志の日本における活動について教えを受く」

大川所長邸とは、大川周明の私宅のことである。大川塾から歩いてすぐのところにあった。

こういった会食の機会にも、アジアの植民地で起こっている独立運動の状況についての教育は、塾生たちに伝えられ、やがて渡洋した時、彼らの意志を強固ならしめる一因になったのだろう。

博覧強記の大川周明だが、何も書物から得た知識だけで教育をしていたわけではない。

実際にはクォン・デは大川塾に来たし、仏印で広く事業を営む大南公司・松下光廣社長を通じて情報を得ていた。

日誌を読んでいると、南方の独立運動の熱気と上大崎のたたずまいが交錯して思い浮かぶ。
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by tamaikoakihiro | 2010-08-26 12:43 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

奇妙な条件

一、語学、数学に秀でたるもの
一、容貌に特徴なきもの
一、係累少なきもの
等々――。

これが東亜経済調査局附属研究所、通称大川塾の研究生募集にあたり、掲げられた資格要件だったという。詳しくは「東京人」で書かせてもらった際に言及したが、何度見ても、不思議な思いにかられる。

「スパイ学校」

ある卒業生は、そう指摘した中学校(旧制)の教師のことを取材時に語ってくれた。

だが内実は、スパイなどという了見の小さい、職能養成のための学校などではなかった。

今、資料を読んでいると、語学能力を備え、アジア解放の理念を身につけた若者を、アジア全域に放とうとした大川周明の構想の大きさに、驚かされる。
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by tamaikoakihiro | 2010-08-25 21:18 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

入所式

東亜経済調査局附属研究所、通称大川塾の寮日誌を読んでいる。昭和14年、5月の二期生の入所式には外務省から情報部長が、陸軍参謀本部から佐官が来賓に名を連ねている。

満鉄、外務省、陸軍という3者による出資が一つ、大川塾の特徴を語るための要素だが、来賓からもそのことが窺われる。

同じ年の3月には航空総監だった東条英機も大川塾に来ている。講演して「東亜新秩序建設の大目標のために、われわれに日本人の一人一人が覚悟して、凡ゆる国際的困難を克服せねばならない」といった主旨で話した。

有力者との大川周明のつながりが、東条英機のような人物と、若者たちの邂逅を可能にしたのだろう。
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by tamaikoakihiro | 2010-08-24 08:01 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

正直と親切

東亜経済調査局附属研究所、通称大川塾について、偶然にも知り合うことのできた年長の編集の方が、拙稿に言及した上で、ご自身の考えを述べられている。読んでいてはっとさせられる箇所がたくさんある。

こういった考えを明晰に述べられる方と、わずかでも知り合えることは、大きな喜びである。
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by tamaikoakihiro | 2010-08-17 06:11 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

戦争の終わりについて

昨日は敗戦から65年目の一日だった。戦争を経験した人は、私の知る限り、この日に思い入れを持たない印象がある。

それはそうだろう、と自分で以前人に問い、納得した覚えがある。

戦争はずっと続いていたのである。そして、ある人にとっては、その日以降も、戦争中と変わらない毎日があったかもしれないのだ。

フランス領インドシナにいた南洋学院OBのある方は、戦後はベトナムの独立勢力、ベトミンへ勧誘されたり、逆にフランスに命令されてベトミンとの戦闘に駆り出された。

そんな方の話を聞くと、敗戦の日というある一点について、極大化してすべてを語ろうとすることは、大きな間違いのような気がしてくる。

敗戦の兆しはどこからかずっとあったのだろうし……

そんなことを、翌朝(今朝)の「平和の近い新たに」式の論調に埋め尽くされた新聞を見て、思った。
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by tamaikoakihiro | 2010-08-16 09:13 | 南洋学院 | Comments(0)

京都で戦争のことを聞く

先日、京都で東亜経済調査局附属研究所、通称大川塾卒業生(二期生)の方に、三度目の取材をした。

「もう忘れたことも多くてね」と語るその方は、戦後引き揚げてきた京都で、大陸系人脈につながる傑物と再会し、そこから就職の糸口を得たようだ。

京都は戦災に遭わなかったといわれるが、戦争の話をその町で聞くと、観光客で賑わう現在の町が、急に65年前の亡国の頃の色に変わるように思えた。
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by tamaikoakihiro | 2010-08-13 10:55 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

亡国の痛み

練習は、試合のマウンドでいい投球をするためにやっているのであって、マウンドで無様な投球をすることを怖れるためにやっているわけではない。

東亜経済調査局附属研究所、通称大川塾のことを再びまとめるにあたり、そんなことを考えた。

高校三年生の夏、後にプロ野球に進む後輩エースの投球を、控えの身としてベンチからぼんやり眺めていたときのことも思い出した。

思えば情けない高校球児の時代であった。そしてそういう情けなさの自覚はいつのときもついて回る。

しかし、まあ情けなくても生きていかなくてはならないし、やるべきことはやるだけなのだろう。

何、亡国の痛みに比べれば、情けないだのは、論ずべき価値などない。
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by tamaikoakihiro | 2010-08-13 10:29 | 雑感 | Comments(0)