大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro

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至軒寮と穂積五一

穂積五一という人のことを調べている。この人は戦前・戦中、至軒寮という学生寮を主宰していて、日中和平や反東条英機の運動をしたことでも知られている。

穂積五一のことは、どんな人であるか、まだ私はつまびらかにしない。

上述の他に知ったところでは、、戦後はアジアの留学生を受け入れる事業に注力し、留学生たちが住まうアジア文化会館を建てた。

閑話休題。昨日資料として読んでいた本で気になったのは、武田信近(慶応義塾大学出身)という人の名前が、至軒寮を訪ねていた人物の中に含まれていたことである。

この人は1930年代の後半にアフガニスタンやトルコなどを含めアジアを旅行している。途中旅券を紛失し、帰国時には「身元引受人は小泉信三である」といったとか。

武田は大川周明とも交流を持っており、大川塾の同窓会報にもその文章が掲載されている。

アジア主義、寮……そんな言葉から興味深い人物、存在が浮かんでくる。

至軒寮を教えてくれた方に感謝したい。狭い視野が少しだけ、広げられた気がする。そういうありがたい機会を与えてくれる方は、なかなか得ようと思っても得られないものだから。
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by tamaikoakihiro | 2010-06-28 15:56 | 至軒寮 | Comments(0)
前回、「独立支援商社」、大南公司について書いた。

そこに東亜経済調査局附属研究所の卒業生(大川塾生)が多数入社したことも書いた。

それが何かの力になったのか、昨日、自宅に大川塾二期生の方から手紙が到着した。

こちらの雑誌をお送りしていたこともあったのだろう。

手紙の主は、戦前の大南公司に務め、カンボジアや安南(現在のベトナム中部)で活躍した方である。

その方の活動は――

カンボジアではソン・ゴク・タンという、フランス官憲に目をつけられていた独立運動家のタイ脱出を支援した。

安南では明号作戦に先立ち、フランス側の情報収集や独立運動家との連携を図った。ともに活動したのは、陸軍中野学校卒業生だった。

などなど、この方のことを書けば、カンボジア、ベトナムの水面下での独立運動史を克明に辿ることになる。

お便りの中に「嫌悪感」という言葉があった。

日本・日本軍が、自国の勝利を最優先して、独立運動を二義的に見ていることに対し、そういう気持ちを抱いたそうだ。

「日本人だからといって威張ってはいけない」と、大川周明は大川塾生たちに言っていたという。

そんな教育の一端を垣間見させてもらえるのが、「嫌悪感」という言葉なのであった。
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by tamaikoakihiro | 2010-06-16 07:54 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)
ここ何年も、といったら少し大げさだが、ずっと気になっている会社がある。名前は大南公司。松下光廣という五島列島出身で明治末年に仏領インドシナに渡った人物が興した商社である。

戦前・戦中を通じてベトナム民族独立運動を陰で支援した人物として、松下光廣の名は知られている。

現在のベトナムだけでなくタイやカンボジアなどにも支店を持った。

彼は大川周明と接点を持ち、安南王国の亡命王族クォンデともつながっていた。

また大川周明の弟子である大川塾卒業生を数多く受け入れ、商売のイロハを教え、また独立運動支援の貴重なメンバーともしていたようだ。

彼に対する感謝の言葉を、ある卒業生(故人)の手記の中に見ることができる。

「ただ、時代に即して運営する事務局に人を得なかったため、志と現実が異なり、卒業生のある者は軍に、ある者は外務省の下働きに甘んじることになった。わずかに大南公司、松下社長のみが卒業生を尋常に扱ってくれたやに思う。まことに残念である」

この方はタイで大南公司・松下光廣と交流を持ったようだ。

松下は一時期、仏印政府からスパイ容疑で睨まれ、域外への退去を余儀なくされた。塩田開発のための調査が、日本海軍の南進の便宜を図ったのでは、という嫌疑だったという。

「独立支援商社」。そんな言葉を、大南公司について調べるたび、頭の中で転がしている。

ちなみに大南公司は戦後、再びベトナムに進出し、戦中から親交のあったゴ・ディン・ジェム大統領(南ベトナム)の居場所に松下がフリーパスで入れるという特異な立場を活かし、事業の再興を図ったのである。
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by tamaikoakihiro | 2010-06-11 12:22 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

ビルマ独立義勇軍(BIA)

ビルマ独立義勇軍(BIA)に参加した大川塾卒業生の方からお手紙を頂戴した。

その方に取材した結果をもとに書いた拙稿を、読んでくださったのだった。

BIAと聞いてすぐにわかる人は、おそらく大東亜戦争やビルマに関心のある人に限られているだろう。

大東亜戦争時、日本陸軍の参謀本部の肝いりでスタートした対ビルマ謀略機関「南機関」が母体となった組織がBIAである。

日本軍が開戦後、ビルマに進出する際、後方攪乱や民心掌握に努める一環で、ビルマ独立運動の中心人物たちを要して結成されていた。

アウン・サン・スーチーもここに参加していた。

前置きが長くなった。

そんな歴史を記録するにふさわしい一要素がBIAなのである。

そこにいた人から貰うお手紙は、非常に貴重であり、失われてはならないものなのである。それは歴史を証言するからである。
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by tamaikoakihiro | 2010-06-09 16:53 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

読む人の目

自分が書いたものがそのまま、つまり自分の意図に沿って理解されるとは限らない。

また自分では十分わかっているつもりのことが、人には伝わらないこともある。

それは書き方の問題もあるだろうが、やはり自分自身が、自分の書きたいことが見えていなくて、また理解も不十分なせいなのだろうと思う。
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by tamaikoakihiro | 2010-06-08 05:35 | 雑感 | Comments(0)

厳しい読み手

書籍の編集を仕事にしていた頃、といっても、そんなに遠い昔のことでなく、ほんの数年前だが、「厳しい読み手」に出会った。

同じ課の先輩なのであった。

取次に出す新刊案内や新刊のカバーに入れる紹介文を書いてチェックのために提出すると、たかが100文字程度だったりするのだが、プリントアウトは真っ赤にされてしまう。

「てにをは」のあたりから直される。それはまだいい。単純なミスだから。

論旨がおかしいと、売り文句になっていないと、いろいろと指摘を受ける。

はっとさせられたり、そんなつもりで書いてはいないと内心不服に感じたりしていた。

「144字で論旨なんか」とすら思ったこともある。

またすでに亡くなった年配の編集長が、その人がかつて先輩からいわれた「○○くん、書籍の紹介文は、ひとつの物語でないといけないよ」という話を教えてくれた。

私はその当時(そして今もだが)軽率なので、あまり深くその類の話を考えなかった。

しかし、それらはすべてありがたい教示なのであった。

一言一句安易に扱うことなく書き、見直すことの大切さは、最近少しわかるようになってきた。

東亜経済調査局附属研究所の卒業生の方々のことを書くとき、「厳しい読み手」を想像して書くことにつながっていれば、と思う。
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by tamaikoakihiro | 2010-06-05 12:16 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

「東京人」7月号

もう6月になってしまい、夏を思わせる日もある。

「東京人」7月号が発売され、ありがたいことに「大川塾」(東亜経済調査局付属研究所)について書いた拙稿の3回目が無事掲載されていた。

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編集の方にはお手間をかけてばかりで、校正作業を思い返すと「恥ずかしい」の一言に尽きてしまう。
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by tamaikoakihiro | 2010-06-04 07:24 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)