大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro

カテゴリ:戦犯裁判( 13 )

靖国神社に行ってきた。正確には中にある偕行文庫である。いま、この神社の名前を出すと、ウルトラ右翼みたいに、思われてしまうのかもしれないけれども、偕行文庫でしか見られないと思われる資料も、あるのだな。
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いつも(たぶん)カウンターに司書役の人が2人いるのだが、今日は1人が神職の装いだった。2、3冊の資料を見た。

平成の世も30年近くになるけれども、まだ戦地の記憶を持つ人たちが、わずかな数であっても、存命であることがわかった。

閲覧室には、自分の父親のことを調べに来ていると思しき老年の男性数名がいた。父親が戦地で亡くなった方も、今やけっこうな老境にあるわけだ。

外に出ると、桜が咲いているからだろう、たくさんの人がいた。日本人だけでなく中国人も多かった(ひょっとしたら台湾人だろうか)。
九州編成、通称号「冬」=第三七師団の戦友会が今から50年ほど前に植えたらしい桜の木があった。
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同師団の下士官だった方に、10年以上前、お目にかかったことがある。

北支から南下して仏領インドシナに至り、歩き通して最後はタイ、マレー半島で敗戦を迎えた部隊である。精強を誇ったと聞く。一号作戦(大陸打通作戦)といい、戦争末期にそのような大変な作戦を大陸で行っていたのである。迎え入れる側の仏印からは一号策応作戦というのを行った。一号策応作戦に参加した下級将校の方にも会ったことが、あるな。

冬兵団は、歩き通しで、糧食は現地調達を重ねたが、衣服はぼろになるに任せ、フランス領インドシナに入ったときは、あまりの身なりの汚さに、土地の人々が驚いたそうだ。この冬兵団で下士官だった方を鹿児島のお住まいに訪問した折、「何か覚えている安南語はありますか?」と尋ねた。

「ジョータイレン! ですね」
「意味は何でしょうか?」
「手を上げろ! ということです」

1945年3月9日の仏印武力処理の際「ジョータイレン!」と、敵方(フランス植民地軍)に向かって言ったらしい。戦闘意欲の低い安南人はさっさと手を上げて出てきたらしい。安南人は、フランス植民地の防衛のために血を流す意味なんて、それほど感じなかっただろう。

その戦いから約60年後の2005年。私はベトナム・ホーチミン市に移住していた。小さな会社で働いていた。ある日、路上の珈琲屋で、ベトナム人の友人に「ジョータイレン!」と言ってみた。通じた。げらげら笑われた。手を上げるポーズをとってくれた。

手を上げた友人――2人いた――のうち1人は、いま会社経営者である。もう1人は、正月の大学駅伝のスポンサーで知られるビール会社のベトナム法人に勤めていて、要職にある。

私たちは小さな会社で同僚同士だったが、全員そこを離れて、2人はスバラシイ経歴をつくっているわけだ。2人に共通するのは、ろくにベトナム語の出来ない私を気にかけてくれ、親しくしてくれたことである。忘れ得ないできごとが、たくさんある。

自分が異邦から来た友人にあそこまで親切にできるとはとうてい思えない。

大川周明は、アジアに派遣される自分の弟子たちに「正直と親切」の大切さを説いた。そして「1人でいいから現地で友人をつくりなさい」と話したという。「ほかに何もできなくていいから」と前置きして――

私は2人、得ることができた。僥倖だったな、と思う。ベトナムを離れて10年。今年こそ再訪できるだろうか。再会したいな、と思う。
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インパール作戦に参加した弓兵団関係者による献木もあった。祭兵団、安兵団、そして弓兵団。インパール作戦が語られるとき、必ずでる部隊である。



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by tamaikoakihiro | 2017-04-03 23:38 | 戦犯裁判 | Comments(0)
2月になった。1942年の2月頃、緒戦の勢いで日本軍はビルマに進んでイギリスを追い出しつつあったはずだな、と思う。

タイとビルマ(ミャンマー)の陸路の国境は、いまも峻険な道があると、何かで読んだ覚えがあるけれども、その戦争のときは、ビルマ独立義勇軍が進んでいったそうだ。

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ビルマ独立義勇軍の大尉だった、往時の青年の方に、タイ、ビルマ国境を歩いて越えた話を聞いたことがある。それは大変なことだったそうだ。まだ十代の青年で、まわりはビルマ人ばかりだったという。

つれていた牛をときどき屠り、食してビルマへと進軍した若者たちの姿を、想像した。

いまは、民主化というので、よく話題になる国であるけれども、しかし当時は大英帝国の植民地だったわけだ。

植民地といえば、その隣のインドもそうだったわけだ。

ここ数カ月、ビルマと同じく東南アジアにあった仏領インドシナのことで、あれこれ読んだりしている。

戦後、フランスが、自らの植民地を荒らした日本軍の将兵を裁いた。BC級戦犯裁判、通称サイゴン裁判である。

記録を読むと、本当にいたたまれない気持ちになる。

実際に裁きを受けた方にも話を伺ったけれども、そもそも戦争犯罪という概念は何なのだろう、と思ったりもした。


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by tamaikoakihiro | 2017-02-04 21:22 | 戦犯裁判 | Comments(0)

大分、国東半島

この前、大分県に行ってきた。初日は雨だったけれども、午後から晴れて、美しい風景を見られた。

BC級戦犯のことで教えて下さる方々いらっしゃるので、ご厚意に甘えて訪ねたのだった。
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20年ほど前、まだ学生だったとき、九州を自転車で野宿しながらほぼ一周した。大分県では、国東半島の石仏を見た。浜辺で野宿しようとしたとき、近所の若いお兄さんが話しかけてくれて、パンやアイスをくれた。

いい思い出しかない。旅行者だから当然だろうけれども。

このあたり、来ただろうな、と思う場所も通った。案内して下さった方の車の助手席から緑の風景を見て、懐かしかった。
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あの頃は、やることがないから無暗に自転車に乗っていたのだと思う。友人も一人か二人しかおらず、親しもうとする努力もたいしてしていなかった。
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20年たって、無暗なところはあまり変わらないけれども、自分を助けてくれる人の存在を得られるようになったことは、大きな違いだと思っている。

時間はかかるけれども、そういうものなのだろうなあ。
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by tamaikoakihiro | 2016-09-19 04:01 | 戦犯裁判 | Comments(0)
『逃亡「油山事件」戦犯告白録』(小林弘忠・中公文庫)を読んだ。川にまつわる語りで始まり川の描写で終わっていた。

戦犯がテーマだけれども、導入と終わりの書き方に感銘を受けた。書き方がうまいというか、なるほどと思わされるというか、巻を措く能わざる(この言い方でいいのだっけ?)感じだった。

70年前、戦犯としての訴追をおそれて逃亡生活を送る日本人がいたのだ。そういう人たちを、捕らえようと必死になったのも日本人なのである。

「万歳」の声で出征の場を飾り、戦犯になれば、彼らを貶めて追い詰める人たちが、いたというわけだ。

たかだか70年前のことを、しかしもうほとんどの人が知らないのである。江戸時代のことは時代劇でさんざんやるが、戦争のことは、あんまり取り上げないのである。夏の風物詩として消費するくらいなのである。

神保町の古書店で、ふと振り返って見た文庫の棚にあった本である。運のよいことだった。
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by tamaikoakihiro | 2016-08-23 18:49 | 戦犯裁判 | Comments(0)
大田区に行ってきた。乗り換えを何度かして、目的地に着いた。駅は久が原で、初めて降りた駅だった。小さな駅で、人の数も少ない。
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東急電鉄の小さな(?)路線で見かける壁に張り付いた、あるいは壁から生えだしたようなベンチを見て、「ああ、東急だな」と思う。

池上本門寺での催事に出かけた時期があって、その折に、見て覚えたように思う。

踏切のあたりで、インド料理屋の人が、チラシを配っていた。踏切が時々鳴った。

スーパーに近い喫茶店で一息をついた。もうもうと煙草の煙が立っていて、年配の客が多く、年金や財産の話題が多かった。

久が原まで行く途中、病院が近くにそびえる駅で乗り換えた。その病院には、身内を見舞ったことがある。10年くらい前である。雨が降っていて、寒かった。
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その後、そうだ、勤めの関係で二度ほど訪れたけれども、いずれも雨が降っていた。一度は、カメラマンのWさんがいっしょだった。Wさんは、覚えているだろうか。

ともあれ旗の台は雨の記憶しかない。今日乗り換えで使って、ようやく晴天の記憶ができるわけだ。

しかし、記憶はいつか混濁するものだろうから、晴れもそのうち雨天になるかもしれない。

晴れのイメージから、突然に、プロコンドル島を思い浮かべる。

ベトナムにいたときに、そのプロコンドル島に行かなかったことを、今になって悔いる。コンダオという名前になっていたその島は、ベトナム戦争当時には、政治犯が収容されていた。

大東亜戦争が終わったあとには、日本軍憲兵を主とする戦犯既決囚が収容されていた。さらにその前は、フランス植民地政府が、安南人(ベトナム人という呼び方は、独立運動に直結するもので、使われていなかった)の政治犯が収容されていた。

プロコンドル島で服役していた人の手記や絵を見たことがある。実際にいた人の話も聞いたわけだけれども、イメージは晴天を伴う。


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by tamaikoakihiro | 2016-05-01 19:15 | 戦犯裁判 | Comments(0)

復讐の話

『731―石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く―』(青木冨貴子・新潮文庫)を読むと、細菌戦の研究成果の提供と戦犯として訴追しないことが、一つの取引としてあったことが、わかる。

なるほど、良い材料を持っていると、敗者も勝者と対等に近い取引ができる、ということなのだろうか。

サイゴン裁判の資料を眺めていたら、個人の手記もあった。取引の材料などなく、勝者からの訴追を受けた人々のことである。

興味深いことが書かれていた。

戦犯容疑者として取り調べを受けた人々は、フランス側から相当厳しい拷問にかけられたようである。

以下、引用。

「留置所に入ると同時に下剤を服用させられてそのまま十日間絶食させられた者(S少佐)、探偵局で赤チンに壁土を混ぜて呑まされた者(S大尉尉)、同じく探偵局で殴打水攻めの拷問を受け約一ヶ月間歩行困難となった者(O軍曹、後日処刑)、廊下のコンクリートの壁に向って立たされ監視の下士官から後から力一ぱいに後頭部をつきとばされて額を壁にぶつけられた者(M大尉、K中尉、H曹長)等大多数の者が拷問を受けた」

そうすると、あるとき拷問を受けた者の中には脱走する者がいたようである。

「S少佐H大尉は作業場より逃亡してヴェトミン軍に入り戦犯局デュテー法務少佐、取調官ノゲー及佛印高等弁務官に対し『この日本人の恨みはきっと晴してみせる』との果し状を送った」

ヴェトミン(ヴェトナム独立同盟)は、かのホー・チ・ミン(漢字では胡志明。志の明らかな外国人という意味になるらしい)が、率いた独立闘争のための組織で、日本人多数が参加したことは、近年だいぶ知られるようになったことだと思う。

フランスは、日本に武装解除された恨みがあっただろうから、自分たちや自分たちの仲間を取り締まった日本人は憎かったのだろうなと思う。

勝者になると、今度は日本人に厳しくあたったわけだろう。

そこから脱出した日本人が、独立闘争の側に入って、フランス人に復讐してやると脅す――

まるでドラマのようだなとも感じる、が、当事者にとっては命がけであったのだから、軽薄な感想は慎まないといけないのかもしれない。
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by tamaikoakihiro | 2016-04-04 05:35 | 戦犯裁判 | Comments(0)

日付を見ると

もう4月になるのかと、あくせく坂道をこぎ登りながら思った。

ベトナムにいたとき、「春だな、桜だな」と思うことは、もちろんなかったわけだ。
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(写真は九段会館)

ちょうど、ランソンに行ったのは、3月の半ばを過ぎた頃だったと思う。
堡塁のあとと思われるところに登って、市内を見下ろした。
中国はあっちかなと、思ったのだったか。

ランソン事件の資料を見ると、判決の確定した日は1950年12月8日とある。
これはやはり何か暗示するものがあるのだろうか。
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by tamaikoakihiro | 2016-03-31 21:58 | 戦犯裁判 | Comments(0)

一冊の本、2016年3月号

年末に調べたり、人に教えを乞うたりしていたことで、小さな原稿を書くことができた。「何かを」と言って下さったMさんには感謝の気持ちを強く持つ。
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70年前に本格化したフランスによるサイゴンでの戦犯裁判は、古山高麗雄が法廷に立たされたこともあって、だいぶ前から関心だけはあった。

国立公文書館の文書には、古山の法廷での発言も詳しくわかるし、日本軍がフランスの将兵を殺害した数が300人とも500人ともいわれる「ランソン事件」のこと、そして2人の日本人弁護人のことも、わかることが多い。

弁護人の一人は、中村武。南洋庁高等法院長という官職にあったが、軍と対立した末に辞して弁護士開業した人物である。

もう一人の弁護人、杉松富士雄は謎の多い人で、複数の著書があるにもかかわらず生年はわからない。「市井無冠の大王」と自称していたらしく、風変わりな人であったことは、周囲の人が残した証言で、何となくわかる。

二人が、残酷な拷問の末、次々と日本人戦犯が極刑にされるサイゴンの法廷でどんな弁護活動をしたのか、わかったところを、書いてみた。

書いてみて、わからないこともたくさん出てくる。
もう少し、調べてみたいと思っている。

幸いにも、サイゴンではないが、シンガポールで杉松弁護士の弁護を受けた方がお元気で、ご記憶を伺うことも、この前できた。
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by tamaikoakihiro | 2016-02-29 04:58 | 戦犯裁判 | Comments(0)

高島平、団地の眺め

この前、板橋区の高島平に行ってきた。団地が建ち並ぶところである。サイゴン(正確にはサイゴン北郊)で数カ月住んだ団地Chung Cu Pham Viet Chanhに趣の似る建物を見て、およそ10年前の自分を思い出す。
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三田線に乗るのも久しぶりだったように思う。

知りたいと思っている弁護士の弁護を、約70年前、受けた方のお目にかかった。意外な事実を伺うことができて幸運だった。その方は、自分を弁護した弁護士というテーマで話すことはこれまでなかったという。

たしかにその弁護士は著名人ではない、と思う。著名人か否かは、しかしものを調べる動機にはあまりならないのだな。

8年前に初めてお目にかかり、2度、3度お話を伺ったが、そのことをまとめる機会はなかった。これは自分の力不足を証明するわけだ。

今回はまた違うテーマだから、これからどうなるのか、わからない。

弁護士との記憶に残るやりとりなど、肉声を通じて知ることができるというのは、戦後30年で生まれた私にとって、貴重なことである。

帰りには、わざわざ事務所のドアの外まで出て、駅はあちらだよと指さし、手を振って見送って下さった。

駅近くの交差点まで行くと、サイゴンの団地を思わせる団地が、そびえていた。
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電車に乗って帰宅する。
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自分の経験はたかがしれているし、そこから思うこと、考えることも、同様だろう、な。

ところが、自分以外の人の経験や思考に接すると、高揚する。我がことは、実につまらないし、狭いと感じる。

自分にとって貴重と思えることが、何かの動機なのかもしれないのだなあ。
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by tamaikoakihiro | 2016-02-13 20:10 | 戦犯裁判 | Comments(0)

バタバタと

戦争裁判関連の学術書を読んでいる。難しい……

論点の整理とか、既存研究の参照など、いろいろ履行しなければならないことが、たくさんあるのだろうと想像する。

今読んでいる本の中で「無数の者がバタバタと死んでいった」という表現があった。

証言類を見ていくと、「バタバタと――」と受け取れる内容が多いそうである。そういうものなのかな、と思うけれども、学術書らしい丁寧な書き方の中に、バタバタという表現が入ると、一種異様な印象も受ける。

「そんな、マンガの表現みたいじゃないか」と思ったり。

表現が一貫していた方が、気持ちよいと思うのだけれども、まあ、それは書く人それぞれ、ということなのかもしれないな。
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by tamaikoakihiro | 2016-01-24 19:14 | 戦犯裁判 | Comments(0)