大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro

カテゴリ:作家( 50 )

わからぬもの、こそ

「説明ができ、納得できるものもある。でも、そんなものは、たいていつまらない」(『アメン父』田中小実昌)――なるほど。わかりきれるもの、は大して欲求が募らないものなのであるから、それはそうだなあと思った。

『アメン父』は神保町の小宮山書店で購入した。古山高麗雄が印象的な追悼文を確か書いていて、それを呼んで以来、田中小実昌という作家のことはずっと気になっていた。

名前を知ったのは、ミステリとSFに強い出版社に新卒で入っていくらか経ったときだと記憶する。しかしそのときは名前を覚えただけで、あとは特になにもしなかった。

誰かの随筆でバスに乗ることが好きな人だと書いてあった。東京の街中をバスに揺られてうろうろするようになってから、田中小実昌、という名前を時々思い出した。バスはただ乗るだけで面白い。

浅草発池袋行きなんていうのはとりわけ面白かった。下町のごちゃごちゃした感じを出発点として、日暮里辺りで開成高校を右に見て山の手に入り、巣鴨界隈を横目に見て首都高に見下ろされた池袋に着く。

そういう変化に接すると興奮する。

1925年生まれだから、敗戦の時に二十歳。さてこれから読んでみよう。

思い出した、サイゴンでも、中心部から華人街のチョロンに入る頃の、漢字が溢れるエリアへの変化は面白かったのだ。
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by tamaikoakihiro | 2014-04-20 16:50 | 作家 | Comments(0)

ホーチミン市4区

時々、ベトナム人の友人にチャットで呼びかける。少し間を置いて返事がある。かつて同じ会社にいたのだけれども(ベトナムで)、今は日本人なら誰もが知っているビールをつくる会社の広報担当だそうだ。

聡明な人で、10年前に知り合ったとき、自分の幸運を思った。実にありがたいことだと思った。そういう人と、帰国してからも、付き合いがあるように感じられることもまた、幸運なのだなあ。

それで今日は、カンホイを思い出した。現在のホーチミン市4区は、あの大戦争が終わった頃、まだ「サイゴン郊外」なのだった。サイゴン河の波止場の一つ、カンホイ波止場の近くに日本人抑留者たちのキャンプが、有刺鉄線に囲まれてあったそうだ。

在住時代、うろうろしたけれども、砂地であったという一帯は、日本企業が多数入居する近くの工業団地の方と結ぶ道路が貫き、トラックとバイクが走り回るほこりっぽいところになっていた。

抑留生活をそこで送った、作家は短編「終章」でこう書いた。

「戦争について語ることが無意味でないなら、カンホイについて語ることは無意味ではない。しかし、あの過去は今の私には何なのだろう。」(古山高麗雄)

カンホイ・キャンプの名残をぜひみたいと思い続けていたものの、それは果たせなかった、まあ歳月というのは、どうしようもない。

しかし地図にはカンホイ、という言葉が今も残っていたと記憶する。その文字に接したとき、戦争の頃の記憶について、繰り返し語った、その作家の往時の姿を想像したのだな。

想像すると、大げさだけれども、自分にとって、過去の大戦争とは何だろう、とまた考えがめぐり出すのだ、終わりのない感じで。
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by tamaikoakihiro | 2014-04-10 23:49 | 作家 | Comments(0)

七ヶ宿町往還

この前の雪が激しい折、宮城県・七ヶ宿町に行ってきた。出発の朝、東京は吹雪いていた。白石蔵王の駅に到着すると曇天も降雪はなかった。昨年も乗った町営バスが国道113号線を上がって行くと、雪をかぶった山々を望見し、また七ヶ宿のダムの冷え冷えとした水面に「また来たな」と思った。

一年ぶりに会う方々が、また親切にもいろいろとご教示くださった。気になっていたのは、七ヶ宿から白石に行くときのいい方である。

「下る」というのだと教わった。表現はいろいろあるだろうけれども、土地での言い習わし方を教わってありがたく思った。

到着した日の夕方から雪がひどく降り始めた。翌朝はけっこうな積もりようなのだった。それでも行きたいところへでかけた。

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すると帰途は建物から出て駐車場に行くまでにも一苦労になった。腰の辺りまで積もった雪をお世話になった方と交替でかきわけた。100メートルも行くのに30分くらいかかったのではないか。

除雪車がだいぶ遠くから雪をどしどし推しよけながら進むのを、心待ちにした。目の前まで来て、埋もれていた道を露わにしてくれたときには、救われた思いをした。

ついでに除雪車に乗せて貰ってその場を脱出した。途中からは道路パトロールカーに乗り換えさせてもらった。さらに降りて、暗くなった空の下、国道を歩いた。一人だったら心細くてダメだっただろう。

「もっと苦労せよ」

最下級の兵隊として苦労した作家が、そう言っている気がした。

その日、バスは運休した。翌午前中も運休した。バス停を見に行くと、待合室は雪にこれも埋もれていた。

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こういう経験をできるのも縁であり、運であるな、と思った。
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by tamaikoakihiro | 2014-02-24 23:36 | 作家 | Comments(0)

死の谷

ビルマ北部にフーコンという土地がある。行ったことはない。そこに取材に行った作家に同行した方から話を聞かせてもらったことはある。

フーコンとはカチン語で「死」を意味するらしい。そう『菊と龍』(相良良輔・光人社)には書いてある。

作家とは故人で芥川賞を受賞している古山高麗雄で、古山のことを調べると、止まらない。フーコン取材の折のことを書いた寄稿「私のフーコン旅行記」には、特務機関「西機関」の人とのつながりについて触れている。

取材の過程で知り合ったのだろうか。

西機関のことはよく知らない。宣撫工作のようなことをしていたのだろうか、と今は想像している。

そうだ、大川塾卒業生の中には、印緬国境で特殊工作に就いた人もいる。その種のことをした人に、直接お目に掛かる機会は得られなかったけれども、手記などで活動を想像した。

フーコンに話を戻す。悪疫瘴癘のこの地を貫いて輸送路をつくろうと、連合軍はしたそうだ。インド・アッサム州のレドを起点に、北ビルマのミートキーナを経てバーモへ、そそいて雲南省・昆明に通じる「レド公路」がそれだという。

レドからミートキーナまで500キロは軍用道路に、併行して油送管も敷設しようとしたということだ。

後方を重視するアメリカ式のやりかたであったらしい。

対して日本軍。インド・インパールを目指す作戦では、敵中に糧を求めよとし、「ジンギスカン作戦」とか言ったようだ。

物量の違いか、そもそも発想の違いか。

フーコンのことを読みながら、いろいろ考えてみる。

それにしても今日は雪だ。こういう多難な時期に受験をやるのも、何か日本人の心性に関係があるのだろうか。真夏のぶったおれそうな時期に甲子園をやるような?

いろいろわからないことが、多い。
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by tamaikoakihiro | 2014-02-08 14:24 | 作家 | Comments(0)

戦争ゆえに

表彰式の折にかかる音楽というのはいつも決まっている印象がある。
その曲が何であるか、それは湾岸戦争の頃に知った。

https://www.youtube.com/watch?v=7e06JEupzvA

その折、イラクとイスラエルの関係を紹介した記事の類を読んだ。
ユダヤ教に興味を持った。

旧約聖書(このいい方はキリスト教の側からによるもの、ということだが)の
挿話などを紹介する本も読んだ気がする。

その中のコラムに「マカベアのユダ」のことが書いてあった。

これに由来するクラシックの曲があり、それこそ表彰式のときに使われる
音楽である、ともあった。

戦争がゆえに、そんなことを知ったのだなあ。

このところでは、「天国と地獄」(カステラのCM以来のなじみ)の
調子と曲名がようやく一致した。

https://www.youtube.com/watch?v=TkzVG1WPtyU

ある作家(故人)はビルマで従軍時、匪賊討伐と言われて出動した。

走りながらこの曲の「たんたーんたかたかたんたんたかたかたんたん」
を頭の中で流していたらしい。

自作でも書いていたことである。
最近、その作家から直接そのことを聞いたという方からも教示を得た。

実にありがたいことだ。
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by tamaikoakihiro | 2014-01-05 16:05 | 作家 | Comments(0)

禅で云う

「禅で云う見性ほど、命を懸けての一大事なのだ」(「長編小説 芥川龍之介」小島政二郎)。小島政二郎は初めて読む作家。この言葉の前に、こうある。

「モノになるならぬは、自信を持つか持たぬかだ。持つか持たないかだと云うが、これが実に大きいのだ。幾ら持とうと思っても、持てないのだ。持てる時が来なければ、どうにもならない一生の大事なのだ」

これは中野重治のことを、芥川が室生犀星(おお、金沢)宛の手紙で賞賛したことに触れての一文。

人から間接的に褒められると自信になる、というのは、よくあるマネジメント本でありそうな話だけれども、小島もそんな主旨のことを言っている。

で、なぜ小島の本を読もうと思ったのか、忘れてしまっている。まあ「見性」という言葉を辞書で調べる機会を得られただけでもありがたいと思う。

仏教用語なのだな。

〘仏〙 修行によって表面的な心のあり方を克服し,自分に本来備わっている仏の真理を見きわめること。「―悟道」

と『大辞林』にはあった。なるほど、よくわからないけれども、そういうことなのだろう。
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by tamaikoakihiro | 2013-12-31 05:39 | 作家 | Comments(0)

アルプス

信州・伊那の方面に出かける機会があった。戦後、詩の世界で存在感を持ったある「派」(と言ってよいのかどうか、詩に暗い私には自信があまりない)の中でも、代表的な方のお目にかかるためだった。詩についてでなく、その方が交際したある作家のことを聞かせてもらう――それが目的だった。

中央道をバスで行くと、木々が赤くなっていた。到着した街は小さく、人影も少なかった。以前訪ねた近くの街に似て、JRの駅の周囲に商店街が連なっていた。小さなロータリーにはバスとタクシーが佇んでいた。

タクシーに乗ると、山の方に向かって下った。谷が大きく広がっていた。天竜川が時間をかけて削ったのだろう、と思う。

その方は、大学を卒業してすぐに入った出版社と縁があるのであった。だから作家のことを伺う合間に、息継ぎのつもりで、その会社の話題を出した。

往時を思い出されたようだった。私は文字によって知り、また年輩の社員から聞いたりした諸先輩方(といっても私はダメ社員だったから、そんな風にいう資格はないのだけれども)の話をしてくれた。

話を聞き終えて外にでると、山肌が夕刻の色になっていた。帰りの車中、アメリカの作家、フォークナーの小説を読んだときのことを思い出した。
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by tamaikoakihiro | 2013-11-06 02:50 | 作家 | Comments(0)

十の嘘

小倉駅に出かけたときのこと。現在の小倉駅が、戦後すぐの小倉駅の場所と変わりないと思い込んでいた。だから、軍隊の仲間ちを乗せた列車が遠ざかるのを見送って「バンザイ!」したある作家のことを思い、そうかここでバンザイしたのか、と想像した。

しかし近くの北九州市立図書館でレファレンスの人が出してくれた資料を見ると、現在の小倉駅は、昭和三十年代の建てかえの折、旧来の場所から移動してきたとある。

現在の西小倉駅が、そのあたりだという。小倉の高校に通った方に伺ったところ、資料のいう通りらしい。

それで西小倉駅に立ってみた。反対側のホームを見ると、何度かホームがかさ上げされたのか、地層のようになっていて、古い時代のホームはだいぶ低い位置にあったと想像された。

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ではあの作家は、あの低いあたりで列車を見送ってバンザイしたのだろうか。

それから別府へ向かったのだろうか。

しかし、いろいろ調べないとわからないものだ。

「私たちは、つい知りたがり、一を聞いただけですっかりわかったような気になり、十の嘘を語りがちだ」(「ハバロフスクのギョウザ」古山高麗雄)

そういう言葉を思い出した。小倉駅を訪ねただけでは、わからなかったことを教えて貰えたわけで、幸運なことだった。
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by tamaikoakihiro | 2013-10-19 04:51 | 作家 | Comments(0)

ロシア大使館

麻布十番の駅を出て、麻布狸穴町の急な坂を登りロシア大使館の前に出た。朝早く、雨が降っていて、日曜日である。首に一眼レフをかけてあちこち見回している私を、警察官が不審げに見た。

しかし、まあいい。

目当てのビルは難なく見つかった。そのビルに、ある作家が編集専従で入った雑誌の編集室があった。目をこらしたら、いろいろとわかった。作家の相貌が、少し、見えた気がした。

a0153209_046239.jpg場所は飯倉の交差点に近かった。当然、東京タワーが近い。

自分でつくった課題を、早朝に達成できて、まずは気分がよかった。

でも「そんなことして、どうする、誰が理解を示すというのだ」と意味を問われたらどうしようか。

ロシア大使館が至近距離だったこともあり、学生の頃、気に入って読んだロシアの作家、レーミゾフ(パリで客死したのだったか)の作品で見つけた一節を思い出した。

――ただ見るために、ただ聞くために、ただ感じるために――

作品の名前は忘れた。正確でないかもしれないが、ある主人公が、人生の意味(大仰だが)を自らに問うてそんな解を見つけたのだったと記憶する。

自分のやることなすこと、説明をつける必要はないものの、迷ったり、怖れたり、何かあるときは、思い出す。

「人生は生きるに値しない」という言葉は、A・カミュが書いていたのだったか。

レーミゾフのそれにしても、カミュのそれにしても、そういうものが思い出せると、心強く感じる。

いろいろ「怖れ」はある。でも、どうなろうと、そもそもそれに「値」などないのだし、レーミゾフ流の「ただ――、ただ――、ただ――」の結果なのだなあ。そう考えれば、楽になる気がする。

そうだ、対象が何であれ「怖れ」は大事なのだろう。誰かが、「自分がもっとも怖れていることを書きなさい」と言うか、書くかしていたな。

あるいは、アメリカ式のスポーツ心理学の言い方をすれば、「不安があるほど、やる気が強い証」となろうか。だから「やってみなさいよ」ということか。

「そんなことして、どうする、誰が理解を示すというのだ」――そう思ったら、反対に考えて、やってみないとなあ。歩いて、見て、わかることが、やっぱりあるわけだし。

進まないことを抱えて、雨が降る夜、あれこれ思った。

でもあれだな、思ったことを書くのは、やっぱり難しい。向かないや。
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by tamaikoakihiro | 2013-08-27 00:04 | 作家 | Comments(0)

校正

「季刊藝術」を読んでいる。とある号で、編集同人の古山高麗雄(故人)が編集後記にてしきりと誤植を詫びていた。どんな本・雑誌でも誤植はつきものだけれども、「痛恨」のそれは、著者・編集者にとって、やはりあるのだろうなと思う。

もう10年くらい前、当日勤めていた出版社で、「~さん、最初のページと奥付くらい、誤植はないようにするもんだよ」と説教をされた社員がいた(と聞いた)。

だいぶ誤植が多い本だったらしいけれども、「最初のページと奥付くらい」というゆるい説教が、何ともすてきだな、と思った。

説教をした方は、その当時、編集部長だったと記憶している。親しくお話を伺う機会はついになかったけれども、「本当につくりたい本だけ、つくりなさいよ」と言われたことが、本をつくる機会はなくなったにもかかわらず、心に残っている。

ま、やりたいことを、やらないとなーと、夜になって、思い出す。

それで説教をされた社員の方、今ではとある雑誌の敏腕編集長になっているのであった。
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by tamaikoakihiro | 2013-07-27 23:09 | 作家 | Comments(0)