大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro

カテゴリ:作家( 48 )

駒込うろうろ

朝、昭和三〇年代の住宅地図を片手に駒込駅のあたりを歩いてみた。駒込はどうも坂の上と坂の下と分けて考えるのだけれども、下が見たいところなのであった。
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探していた作家の旧宅のあった場所は、割合すぐに見つかった。その頃から住んでいるのであろう人の名がついたビルが目印になった。

坂上の大名屋敷の方からすると崖の下で、徳永直が「太陽のない町」の舞台としたというのもわかる気がした。

その作家は「悪い仲間」(安岡章太郎)で描かれた仲間たちののボス格なのだけれども、戦後は本人曰く「うだつの上がらぬ編集者」として長く過ごした。

駒込に住んでいた頃には、安岡章太郎の方は文壇に進出して活躍し始めているから、焦燥もあったのではと想像するけれども、実際はわからない。

後年作家になってからの長編小説の一章に「坂の下の町」と題するものがあるから、当時は鬱屈するところもあったのかもしれない。

駅に戻る折にうろうろしていると、聞き覚えのあるベトナム語、それも南部弁が聞こえて来た。開高健が「鳥のさえずるような」といった感じで形容したやわらかい言葉である。
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若い夫婦がマンションから出て来て、赤子を連れてどこかへ出かけるらしかった。

あの作家は南部仏印サイゴンの監獄に捕らわれていた。何か縁を感じた。あの作家は「安南語はよく音が通る」といった形容をしていたなあ。確かにそうなのだなあ。
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by tamaikoakihiro | 2014-08-16 20:55 | 作家 | Comments(0)

東南アジアの川

この前、小さな川を見た(というか、毎日通勤で見ている)。水がちょろちょろと、こじんまりと流れていた。車窓から「ああ、日本の川だな」と思った。

まあ東京郊外の川だから、当然かな。


サイゴン川を見たときは、東南アジアの平地の川とは、スケールがあるなと感服した。水草がゆるゆると流れていく様に、戦時中、サイゴンで学んだ人から聞いたその水草の有様そのままだと思った。

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サイゴン川のことは古山高麗雄がデビュー作「墓地で」の中で、書いていた。

私が見たサイゴン川と、敗戦直後のサイゴン川とでは、まったく様相が違うのだろうけれども、川向こうの「ベトミン地区」のことなど想像した。そうだ、私が住んでいた頃は、川向こうの2区は牛が草を食む風景があった。背景にサイゴン中心部の高層ビルが見えた。

サイゴン川を遡上する大きな貨物船を見上げるように眺めたときは、子どものように感激した。泥色の川の貫禄に、羨望を覚えたなあ。

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(写真は旧クォンデ通りの風景。クォンデはかつて日本に亡命して祖国独立の運動を行った王族)

一時期、仏印に展開していた日本軍部隊関係者の戦友会報を読みあさっていた。意外と多いのが、サイゴン川をメコン河の支流としている記述であった。正確にはサイゴン川はドンナイ川水系であり、メコン河の系列ではないようだ。

しかしサイゴン川のスケールを見ていれば、メコン河の支流と考えてもおかしくはないと思う。

サイゴン川は、アロヨシノワ(中国人の運河、だったかな、意味は)という運河でメコン河の方面に、確か通じている。サイゴンを発ってプノンペン方面に行く部隊の中には、そういう例もあったのだろうと想像している。

川は、いいなあ。大きいほど、何かいいものを感じるなあ。
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by tamaikoakihiro | 2014-08-02 19:22 | 作家 | Comments(0)

歩き

西荻窪駅北口を出て歩いてその大学まで行った。炎熱で汗が噴き出した。たぶんこれまでで初めて女子とつく大学に入る経験だったが、守衛さんに来意を告げると、行き先の校舎の位置を丁寧に教えてくれ、無事目的の校舎に辿り着いた。

構内は人影がなかった。低層の洋風の建物を見ていて思い出していた。そうだ、あの作家が一時期を過ごしたサイゴンの兵営。あのマルタン兵営というのは、私がベトナムに住んでいた折には、大学の校舎として使われていたのであった。

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お目にかかった方は、あの作家にまつわる記憶を、実に印象的に語って下さった。そうそう得られる機会ではないのである。ありがたいことだと思いながら辞去した。

「私はビルマに運ばれたが、運よく生き残った。そしてビルマを懐かしく思い、再訪している。おかげさまで、ビルマに知人ができた。狂った将軍のおかげさまで……。」
(「遙かなる雲南戦線」古山高麗雄)
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by tamaikoakihiro | 2014-07-26 20:32 | 作家 | Comments(0)
1998年、日本が春の頃、カンボジアを訪ねた。プノンペンで銃撃戦があっただの、強盗がどうのと、物騒な話をバンコクでたっぷり聞かされていたものだから、臆病に空路でシェムリアップに入った。

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子どもの頃、アンコールワットを「発見」したフランス人の話だったかを漫画で読んでいたから、森に沈むように立つアンコールワットを近くの山(プノンバケンだったかな)から眺めたときは、心底興奮した。

緑に囲まれた石の寺院の壮麗さは、日本の古刹には感じなかった、何というか、神秘のようなものを催させたのだったなあ。

何年かして、ベトナムに短い間だけれども住み、その折「おおバスでいけるじゃんか」と気軽にホーチミン市からバスに乗ってシェムリアップを再訪した。

かつて泊まったゲストハウスを眺めに行ったけれども、妙に古ぼけてしまっていて、近づくのは止めた。アンコールの寺院群を見て回って、以前のような感興は近づいてこなかったものの、やはりいいものだなと思った。

有り余る陽光と灰色の寺院の対比は、いつ思い出してもいいものだな。

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そして今、カンボジアに縁のあった作家のことをあれこれ調べたりしている。あの作家はプノンペンに主にいたわけで、シェムリアップには来ていないはずなのだ。

作品中でカンボジア人のことを「カンボちゃん」と、主人公の兵隊が言っていたなあ。
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by tamaikoakihiro | 2014-07-23 22:46 | 作家 | Comments(0)

内務班

「徴兵忌避を戦争否定の有力な手段だというのなら、格別深い洞察を強い信念も持たない一市民でも、その道を選びうる基盤がなければならない」――吉田満の「一兵士の責任」から。

吉田自身は、学徒出陣組であり、将校であったから、“一兵士”とタイトルにつけたのは、そういう普通の人々(これは、高等教育を受けていない、くらいの意味で使ってみる)のことまでも思考の枠に収めて考えたかったということなのだろう。

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高等教育を受けた大学生も出陣し、運命を受け入れようとして苦しんだと、大方の本には書いてある。つまり与えられた場所で最善を尽くしたのだろう(つまり、戦場でよく戦おうと努めた、ということだろう)。

すると、上のような部屋(内務班)で、古参兵からいじめられ、南方を転戦したあの作家が後年デビュー作で「私には、思う自由、というものがある。これだけは、誰も束縛することはできない」と書いたのは、当時のある若者の、切実で精一杯の抵抗を示していることになるのかなあ、と思う。

内務班は整然としていた。階段の踊り場に出て窓の外を見ると、公園の緑が目に残った。

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by tamaikoakihiro | 2014-06-02 21:26 | 作家 | Comments(0)

仙台の兵営

用事があって、東北に日帰りで行ってきた。朝着くと、仙台駅東口から宮城野原に伸びる大通りは、なんだか街路樹に飾られたハノイの通りのように見えた。20分ほど歩いて榴岡公園に行った。朝早いためかランニングやウォーキングに精を出す人たちが多かった。
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大きな石碑があるので近づくと、歩兵第四聯隊を記念する、戦後に建てられたものだった。今村均将軍の名前があった。建てたのは重陽会という組織だそうだ。歩兵第四聯隊が、明治の時代、重陽の節句の日に設立されたことにちなむ名前なのだろうと想像した。

公園の奥に目をやると保存された兵舎があった。いまは歴史民俗資料館になっている。二階には歩兵第四聯隊の内務班を再現した一部屋があった。狭い寝台、低い棚、入口に立てかけられた歩兵銃等々、興味深かった。棚の下で捧げ銃をさせられた若き日のあの作家のことを想像した。

それから東北本線を南下して、大河原に行った。大河原は、高校の野球部で同じ字を名字とするチームメートがいた。遠征で来たこともあった。緑のきれいな球場で試合をした記憶がある(自分は出られなかったけれども)。
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何か縁があるのかもしれない。途中、車窓の外、蔵王の方には雪がまだ見えた。



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by tamaikoakihiro | 2014-05-26 05:17 | 作家 | Comments(0)

土地のにおい、音

ハノイからサイゴンまで、二泊三日で南下した。統一鉄道というのに乗った。コンパートメントの寝台であった。2005年5月だからもう10年近く前のことだなあ。早朝4時過ぎにサイゴン郊外の駅に到着したと記憶している。(写真はサイゴン駅と無関係)
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駅に降り立つと、においが北部と違った。食べ物のゴミが腐敗したような、いや違うかな、魚礁の濃厚なにおいかな、そういうにおいがあった。バイクタクシーに乗って、中心部に移動するとき、そんなことを感じ、「南部に戻った」と思った。確か3カ月かけてサイゴンから北部は中国国境のカオバン省なんかまで足を伸ばした。だからベトナムを結構知った気になった(単純なことに)。

土地にはにおいがあることを、異国で理解できたのは、いい経験だったと思い出す。

先日、日本の旧植民地、新義州に生まれ育った方のお目に掛かった。どんなにおいが記憶にありますかと尋ねてみた。

アカシアの花のにおいだったそうである。甘酸っぱいにおいなのだそうである。春になると、結氷していた鴨緑江が割れる。その音が、川の近くでは聞こえてきたとも伺った。土地の音である。

話は変わって……ベトナムにいらしたあの元残留日本兵の方は、奇遇なのだが、内地から渡って新義州の税関で働いていたと仰っていたなあ。あれはベトナムに住んでいた頃に聞かせてもらった。冬、オオカミの吠える声が聞こえたことも聞かせてもらった。

におい、音、それぞれ記憶を立体にするものだなあと思う。無菌、無臭志向の時代に育った自分に、そういうものが少ないことは、まあ、何となく残念だなあ。
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by tamaikoakihiro | 2014-05-18 19:22 | 作家 | Comments(1)

芝浦のあたり

JR田町駅を海側に出て左に曲がる(浜松町方面へ)。見上げるとモノレールが通るあたりを歩き、大通りに出る。BMWの巨大なショールームを右手に見て、小さな五階建てほどのビルを見つける。

住所からすると、そこが「季刊藝術」が最初の編集部を置いたビルと思しい。今はBMWでもバイクの方のメンテナンスを行う場所になっているようであった(一階が、だが)。

果たしてそこが「季刊藝術」編集部のあったところなのかどうか、確信が持てない。そのうち国会図書館地図室で1960年代の住宅地図を見て、確認を取れるかどうか、試みてみよう。

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近くには、看板建築風の二階屋が残っていて、「湾岸」の感じから遠いものもあるのだった。確かあの作家は、江藤淳に勧められ、また円地文子が原稿を落とすことになったから、という“理由”で、編集作業を昼間は行い、それが終わった夜、編集室だか守衛の部屋だかで書いた、と書いていた気がする。

それが編集者から注目され、第二作を書き、芥川賞受賞になった――という感じである。

その古山高麗雄のデビュー作は「墓地で」がタイトル。ただ掲載された「季刊藝術」の目次を見ると「墓場」でとなっている。「墓地」と「墓場」では、だいぶ受ける印象が異なる。

目次の校正にまで気が回らぬほど、多忙になってしまったのか、と想像してみたけれども、どんなものだったのだろう。
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by tamaikoakihiro | 2014-05-05 12:53 | 作家 | Comments(0)

わからぬもの、こそ

「説明ができ、納得できるものもある。でも、そんなものは、たいていつまらない」(『アメン父』田中小実昌)――なるほど。わかりきれるもの、は大して欲求が募らないものなのであるから、それはそうだなあと思った。

『アメン父』は神保町の小宮山書店で購入した。古山高麗雄が印象的な追悼文を確か書いていて、それを呼んで以来、田中小実昌という作家のことはずっと気になっていた。

名前を知ったのは、ミステリとSFに強い出版社に新卒で入っていくらか経ったときだと記憶する。しかしそのときは名前を覚えただけで、あとは特になにもしなかった。

誰かの随筆でバスに乗ることが好きな人だと書いてあった。東京の街中をバスに揺られてうろうろするようになってから、田中小実昌、という名前を時々思い出した。バスはただ乗るだけで面白い。

浅草発池袋行きなんていうのはとりわけ面白かった。下町のごちゃごちゃした感じを出発点として、日暮里辺りで開成高校を右に見て山の手に入り、巣鴨界隈を横目に見て首都高に見下ろされた池袋に着く。

そういう変化に接すると興奮する。

1925年生まれだから、敗戦の時に二十歳。さてこれから読んでみよう。

思い出した、サイゴンでも、中心部から華人街のチョロンに入る頃の、漢字が溢れるエリアへの変化は面白かったのだ。
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by tamaikoakihiro | 2014-04-20 16:50 | 作家 | Comments(0)

ホーチミン市4区

時々、ベトナム人の友人にチャットで呼びかける。少し間を置いて返事がある。かつて同じ会社にいたのだけれども(ベトナムで)、今は日本人なら誰もが知っているビールをつくる会社の広報担当だそうだ。

聡明な人で、10年前に知り合ったとき、自分の幸運を思った。実にありがたいことだと思った。そういう人と、帰国してからも、付き合いがあるように感じられることもまた、幸運なのだなあ。

それで今日は、カンホイを思い出した。現在のホーチミン市4区は、あの大戦争が終わった頃、まだ「サイゴン郊外」なのだった。サイゴン河の波止場の一つ、カンホイ波止場の近くに日本人抑留者たちのキャンプが、有刺鉄線に囲まれてあったそうだ。

在住時代、うろうろしたけれども、砂地であったという一帯は、日本企業が多数入居する近くの工業団地の方と結ぶ道路が貫き、トラックとバイクが走り回るほこりっぽいところになっていた。

抑留生活をそこで送った、作家は短編「終章」でこう書いた。

「戦争について語ることが無意味でないなら、カンホイについて語ることは無意味ではない。しかし、あの過去は今の私には何なのだろう。」(古山高麗雄)

カンホイ・キャンプの名残をぜひみたいと思い続けていたものの、それは果たせなかった、まあ歳月というのは、どうしようもない。

しかし地図にはカンホイ、という言葉が今も残っていたと記憶する。その文字に接したとき、戦争の頃の記憶について、繰り返し語った、その作家の往時の姿を想像したのだな。

想像すると、大げさだけれども、自分にとって、過去の大戦争とは何だろう、とまた考えがめぐり出すのだ、終わりのない感じで。
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by tamaikoakihiro | 2014-04-10 23:49 | 作家 | Comments(0)