大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro

カテゴリ:作家( 48 )

たいへん印象的な表紙、のなかに、「戦争小説家 古山高麗雄伝」。
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いろいろな偶然があって、こういう機会を得ることができた。

運の良いことだったなと思うしか、ない。

古山高麗雄は、約10年前、戦争に材を取って何か、
と思い始めたとき、知人のNさんから教えて貰った作家だった。

すでに亡くなっていた。

だから直接の面識は得ようもなかった。

あとで知ったのだが、亡くなった父も、どういうわけか、
「戦争三部作」を書棚に揃えていた。あれも一つの偶然なのだったと思う。

大きな偶然の一つは、南洋学院というサイゴンにあった
外地校に学んだ人たちに取材していた折、新潮社で
古山と仕事をともにしたことのある方と会ったことだった。

その方は、非常に厳しい目をした方だった。
質問を、たぶんおずおずと私はしたはずで、
しかし、印象的に古山のことを、いくらか話して下さった。

確か国立の白十字という喫茶店で、夏の暑い日にお目にかかった。
もう10年か。
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by tamaikoakihiro | 2015-04-06 23:51 | 作家 | Comments(0)

明号作戦のこと

今年も3月9日が過ぎた。日本軍がフランス植民地軍をインドシナで打倒した明号作戦の日。

70年が経過したというわけか、と思いながら、しかし日常のことに時間を費やして、大して考えもしなかったのだけれども。

当日、作戦に参加した人の話は、何人くらい聞いたのだろう。10人くらいだろうか。ある人は、敵軍の兵営の近くに潜んでいたと伺った気がする。

ある人は、安南人の保安隊員に「手を挙げろ」と言ったらあっさり降参されてしまった話をしてくれた。鹿児島の部隊の人だった。中国からひたすら歩いて南下してきた精強師団なのであった。部隊の通称号「冬」。冬兵団というらしいが、仏印にいたときは「光兵団」とも呼ばれていたらしい。

いろいろな3月9日を聞いた。聞けただけ何とありがたいことなのだろう、と思う。

そうだ、あの作家も、プノンペンで明号作戦に参加している。シアヌークを捕らえる任務を負っていたそうだ。面識はもちろんないから、書かれたもので、知った。

毎年、20歳を少し出たくらいの若者が、夜、息を潜めて命令を待っている姿を想像している。

10年前、ベトナムをふらふらしていた頃、確か3月9日は、北部のニンビンで迎えた。60年前のことを思い、想像した。

「他人を想像すること」を教えてくれたのは、あの作家だった。何と、あの言葉を知ったのは、まあ、得がたい経験なのだなあ。
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by tamaikoakihiro | 2015-03-11 23:30 | 作家 | Comments(0)
『懐かしき文士たち 戦後篇』(巌谷大四・文春文庫)を読み直した。

雑誌「人間」が昭和22年1月号で「昭和二十二年に望むこと」という
アンケートを掲載したそうだ。
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答えるのは作家である。

石川達三の答え。
「昭和二十二年に望むことは、愛国心を喚起すべきことです――以下略」

なるほど、敗戦で戦時中の愛国一辺倒の反動があった時期らしいのだろう、と想像する。

河盛好蔵の答え。
「一日も早く戦争裁判が終結し、媾和会議が開かれ、賠償額が決定し、
海外との交通が開かれることを切望します――以下略」

対日講和条約が結ばれるのは昭和26年だから、まだまだ時間が必要
だったのだ。

そして太宰治の答え。

「何を望んだって、何も出来やしねえ」

この太宰の答えだけを、どこかで読んで知っていた。

なるほど、「一年の計は」式の話ばかりがある新年に、うんざりしてもおかしくない。

あるいは新日本とか、変わることばかりを強調された時代であろうから、
それもまたうんざりしたのかもしれないなあ。
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by tamaikoakihiro | 2015-01-03 07:10 | 作家 | Comments(0)

戦犯、小説家、芥川賞

ベトナムに住んでいた頃、フランス領時代の建物を飽かず撮影していた。

サイゴン郊外のチーホア刑務所を発見したときは嬉しかった。

チーホアという地名は地図に載っていて、チーホア市場という
のもあったのだから、うろうろ探せばすぐに見つかった。

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ここに収監されていた日本人のことは、あまり知られていないようだ。
巣鴨プリズンのことは、まあたいていの人が知っていると思うけれども。

チーホアにいた日本人は、だいたいが戦犯容疑者であったようだ。

南方から内地に復員後、捕らえられてここに入れられた人の手記を読んだ
記憶がある。九州の冬兵団の方だったと思う。北部仏印ランソンでの
フランス軍との戦闘の際に起こった問題で罪に問われた日本人が多かった。

チーホアのことを初めて知ったのは、芥川賞作家・古山高麗雄の作品から。

古山はチーホアのことを、草原にぽつんと建つ刑務所として描いていた。

私が見つけたときは、住宅地や小さな工場の類が周囲に密集する
都会のなかの監獄になっていた。

古山は戦犯容疑でここにいて、その後、サイゴン中心部、現在の
裁判所の向かい、ベンタン市場(旧称中央市場)にも近い場所に
あったサイゴン中央刑務所に移され、裁判を受けた。
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判決を受けたのは、1947年だった。そこから作家になるまで
20年と少し。いろいろと曲折があったのだろう、と想像する。
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by tamaikoakihiro | 2014-12-26 05:26 | 作家 | Comments(0)

南方の果物

ドラゴンフルーツを、ベトナムにいるときは好んで食した。市場で数個、買い求めて冷蔵庫に入れて、食べた。赤く燃えるような形で、小さな黒い種が白い果肉の中に散らばっていて、あっさりした味でうまかった。

あの作家も、ドラゴンフルーツが好きだったらしい。
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(写真はサイゴン川を遡上する貨物船。泥色の川を大きな船が進むことに、いつ見ても驚きと感動があったなあ)

あれはいくらだったのだろう。パイナップルもよく、買い物に出かけた折、買い求めた。外皮というのか、とげのあるところは、大きな包丁で、綺麗におとしてくれるので家では切り分けるだけで済んだ。一個6000ドンくらいだったな。あれは2005年当時、適正価格だったのだろうか。

外国人価格だったのだろうか。
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by tamaikoakihiro | 2014-11-02 16:20 | 作家 | Comments(0)

航空士官学校

航空自衛隊入間基地は、昔ジョンソン基地、その前は陸軍航空士官学校(修武台)といったとのことである。
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(写真は古山が復員時に乗船した日本丸船内にあったパネル)

入間基地に隣接した稲荷山公園には、米軍の住まいが残っていたと記憶する。近くに住んでいたことがあるから、ジョンソン基地のことまでは何となく知っていた。要するに、占領下に名前が変わったということだろう。そのあたりまでは大人が教えてくれた。

だが陸軍航空士官学校のことまでは、知らなかった。周囲から聞いた覚えがない。日本の現代史がいかに偏っているか、を示すようにも思う。

古山高麗雄のことを調べ始めて、同じ朝鮮新義州出身の方のお目にかかった。その方は、新義州の中学校を出た後、内地に来て航空士官学校に進んだということであった。

「では、入間基地の――」と思わず聞いてしまった。

敗戦は、しかし訓練のために渡満していて、埼玉・入間の豊岡にはいなかったということである。航空士官学校でいえば、作家・飯尾憲士による直木賞候補作『自決』という、敗戦直後の近衛師団長殺害事件を描いた作品がある。飯尾は航空士官学校で学んでいたそうで、作品でもそのことが触れられていた。

少年の頃うろうろした公園の近くのことを、大人になって知ると、不思議な感慨を持つなあ。しかしたかだが50年だとか、60年前のことを、誰も子供に言って聞かせないというのは、どうもよくわからないなあ。
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by tamaikoakihiro | 2014-10-05 09:58 | 作家 | Comments(0)

散華

『日本海軍 400時間の証言』(NHKスペシャル取材班・新潮文庫)を読んでいる。戦後に行われた「反省会」の存在は初めて知った。

「軍令部」というのが、名前の通り海軍の軍令を司る部署だったことは知っていたけれども、関連書はほとんど読んだことがなかった。陸軍の参謀本部に対置されるのだな。

反省会でのやりとりや、かつて尉官クラスだった人が将官クラスを批判する記述などを見ると、生々しさを感じる。

途中、特攻に関する記述が多かった気がする。

特攻で思い出す本は『戦艦大和ノ最期』(吉田満)である。戦艦大和の沖縄行きは「洋上特攻」なのである。吉田は自分たちのことを「散華の世代」といっていたのだったか……

吉田と親交のあった古山高麗雄の文章を読むと、古山の方では、学徒出陣で応召した吉田のような帝大生は、将校になっているから、わりあい特権階級(軍隊の中では)ということになるらしい。

うろ覚えだけれども、吉田が特攻で出撃した将校たちの死の「意味」を考えようとしていることについて、古山は、自分は死の意味など考えない、と明言していたことが印象に残っている。

応召して学窓を離れ、死の意味を考え続けた学徒将校の死も、農村から召集を拒むこともなく出征した兵隊の死も、同じであると考えたい、といった意味だったと思う。戦死に関し、「散華」と言ったり「犬死に」と言ったりして、色合いを付けるようなこともしたくない、と書いていたと記憶する。実感から言葉なのだろうと思った。

古山は北ビルマ・雲南の作戦で、近くで呆気ない感じで死んだ戦友を見た。敗戦後、サイゴンの監獄では、銃殺刑が決まった「戦犯」たちが、装った朗らかさで過ごす姿を見た。死を直接に見た人らしい、実感が、あったに違いないと思うのだなあ。それがどんなものかは、うまく書けないのだけれども。

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(古山の父の出身地、宮城県七ヶ宿町の雪風景)

さて海軍。10年ほど前、南方作戦について国会図書館で調べていたことがある。仕事をしていない時分だったから平日も朝から出かけた。閲覧室でいつも同じ位置に座る老齢の男性がいた。体つきはがっしりしていて、顔の血色はよかった。

いつ見ても、手元には海軍関係の本があった。年齢は80歳代に見えた。応召して海軍に入り、末端で敗戦を迎えたのだろうと想像した。自分がいた場所が、戦史から見ればどんなところだったのか、確認しているのだろうかと思いながら、いつか話を聞いてみたいと思いながら、そうしなかった。
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by tamaikoakihiro | 2014-09-28 07:20 | 作家 | Comments(0)
『龍陵会戦』(古山高麗雄・文春文庫)に、1945年の仏印武力処理(明号作戦)のあと、日本軍がつくった俘虜収容所のことが書かれている。ここは確か本所、要するに本部みたいなところであり、ラオスの山中に分所があったことは古山が繰り返し書いている。

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「植物園の近くに在った。マルタンと呼ばれていたところだった」ともある。マルタンとはフランス植民地軍の兵営があったところで、古い地図では「マルタン兵営」と書かれていたりする。今で言うと、レユアン通りとグエンティミンカイ通りに挟まれて、大学があるところであろうと、思う。

ベトナムに住んでいた時分、近くに最初に部屋を借りたから、マルタン兵営だなあと思いながらうろうろした。植物園にも度々足を運んだ。サルの類に石を投げたりする客がいて、檻の中で怒り狂ったサルを見たような記憶がある。。

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古山のサイゴンに関する記述は、このマルタン兵営、植物園と、中央停車場、カチナ通り、郊外のチーホア刑務所、中央刑務所、探偵局、あとはショロン、カンホイ……そんなところだろうか。道端で湯を沸かしてコーヒーを供する店のことも書いていたかな。

サイゴンの古い写真を集めた本を、在住時代に購入したけれども、久し振りに、見てみたいと思う。自分の見たことのないものは、人の残してくれたものから、想像するしかないのだなあ。そういう残されたものというのは、ありがたい。

しかしこの映像は、本当に1945年なのだろうか。1分33秒のあたり、中央市場(ベンタン市場)周辺だと思うけれど、これは大南公司の市場前の店に近いのではないだろうか。

2分14秒のあたり、今はなき中央停車場(サイゴン駅)まである……4分25秒のあたり、バナナをたくさん天秤棒にかけて歩き出す女。「ひょくひょく」とその揺れる様を古山は書いたけれども、確かに在住時代、それを見て「ひょくひょく」が適切だと思ったのであったなあ。

7分35秒からは植物園である。しかしこの映像は、誰がどんな目的で撮影したのだろうか。


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by tamaikoakihiro | 2014-09-13 18:49 | 作家 | Comments(0)

経験

経験したからといって、ものがはっきり見えるとは限らない――「私と戦争」(大岡昇平)。『証言 その時々』(講談社学術文庫)は面白かった。未読のものばかりだった気がする。

大岡と長く付き合いのあった作家の方から、大岡の人となりを伺ったことがあるけれども、大磯や成城の住まいにその方が行った折のことなど含めて面白かった。

それで、経験について、大岡自身は上記のように書いていた。「ロバが旅したからといって馬になるわけではない」という西洋の箴言を、誰か作家が書いていた。

経験は人を賢くするときもあるだろうけれど、まったくそうならないこともあるのだろう。

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(写真は大南公司創業者・松下光廣が最初に定住したハノイ南方ナムディンの町。松下のもとで多くの大川塾生が戦前・戦中・戦後と働いた)

学生時分、ベトナムを旅行していた。インドネシアから来たある人が、「インドネシア人、バカなんですよ」と、私なんかでもそりゃあ言い過ぎだし、もし「バカ」と感じるある一人に遭遇したからといって、「インドネシア人」に敷衍するのはなあ、と感じることを、口にしていた。

旅行は貴重な経験だけれども、自らみた範囲だけで、「真実」と思えるような思い上がりも許すわけなのであろう。経験とはそういうものなのであろうな。

それはベトナム在住時、日本では考えにくいもろもろのことにいらだっていた自分にも通じる感覚である。それで大岡の言葉に接すると、そうなんだよなあと思う。

来月、酒田に行けることになった。酒田に行って、大東亜戦争中、当時の若者としては特異な教育を受け、特異な経験をされた方々のお目にかかれる。今から待ち遠しい。
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by tamaikoakihiro | 2014-09-07 10:36 | 作家 | Comments(0)

相模大野あたり

初めて小田急線相模大野駅で下車した。小田原線と江ノ島線に分岐する。おそらく繁華でない方の口を出た。区画整理事業の記念碑が丈の低い植木に埋もれるようにあった。

江ノ島線と平行するように走る道路を歩いた。郊外の住宅地である。

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変哲のない土地のように見えたけれども、昔は畑や雑木林が広がる場所ではなかっただろうかと想像した。何しろ江ノ島線に入ってから「東林間」という駅だってあるくらいだから。

「東林間のブタ小屋」という佳篇があるなあ。
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by tamaikoakihiro | 2014-08-23 17:42 | 作家 | Comments(0)