大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro

カテゴリ:作家( 48 )

「文藝春秋」2015年11月号

月刊誌「文藝春秋」11月号の「鼎談書評」で『戦争小説家 古山高麗雄伝』が取り上げられていた。
a0153209_2119720.jpg

誌面に従って評者の方のお名前を書き出してみる(敬称略)。山内昌之(歴史学者・明治大学特任教授)、片山杜秀(政治学者・慶應義塾大学)、篠田正浩(映画監督)。

『戦争小説家 古山高麗雄伝』は「アウトローの目線で戦地を見つめた男」という見出しのもとで紹介されている。
a0153209_2121271.jpg

無上の喜びとはこういうことなのかと思う。そして不勉強の数々を指摘してもらったことにありがたさを感じつつ、「冷汗三斗」の言葉が頭の中を回る。

文章を書いてみたいな、と思った頃、それは多分高校生の終わり頃だったのだと思うけれども、誰が読者なのか、などとはまったく考えもしなかった。

それは小説を書いてみたいな、と妄想を転がしていた頃も同じだった(と記憶する)。

しかし今は、少し違うと思っていて、誰に読んで貰いたいかというのは少し、考えられるようになった。

ただこれは、文章の技量だとか取材・調査の力とは無関係だから、上述のように恐ろしい不勉強も、やっぱり気づかぬまま、書き進めてしまう。過誤は取り消せないもので、ただ非力を嘆き、次はまともに、と思うしかない。

こういう反省は、しようと思っても、自分からなかなかできるものではないのだろうから、取り上げてもらえたのは、とてもありがたいと思う。本当にありがたく、得がたい機会を頂いたのだなと思う。
[PR]
by tamaikoakihiro | 2015-10-11 21:22 | 作家 | Comments(0)

貧窮、軍隊、実生活

「渋民と北海道におけるこの二三年の、骨に徹するような、窮迫と漂浪の生活は、かつての浅薄な天才気取りの少年を、沈痛にして真摯な一個の思想家に一変させたのである」(『啄木の悲しき生涯』杉森久英)
a0153209_1184425.jpg

石川啄木のことはあまりよく知らないのだけれども、高校の音楽の授業で歌う機会のあった「砂浜の砂に……」というものは記憶にある。

『啄木の悲しき生涯』は、早熟な天才の傲慢の様を遠慮なく書いている。そして実社会であがく(金を得ようと)中での成長に言及する。

なお啄木は貧しい家に生まれたわけではない。「石川一家のように、かつては村の小貴族として豊かな生活をしていた」と同書にはある。父は寺の住職であったが、理由があってその地位を追われたらしい。

古山高麗雄のことを思った。

古山は植民地朝鮮の富裕な開業医の子息として生まれ、不自由のない少年時代を送った。上京して浪人生活を送った東京、第三高等学校の生徒として過ごした京都、退学後に舞い戻った東京のそれぞれで放埒な生活をしたと自ら何度も振り返っている。

仕送りを蕩尽して貧窮したというのだけれども、それは金持ちの子息だからできる貧窮であったといえるのだろう。

階級社会の軍隊では、農村出身の屈強な仲間たちに囲まれて自らの貧弱を痛感した。

敗戦後の日本では、生活のために働く中で、世間を渡るための術を使わなければならなかった。

「窮迫と漂浪の生活」は、古山の場合、戦前・戦中での東京、京都でのこと、軍隊での大東亜転戦と戦犯体験、戦後の暮らしを立てる苦労であり、それらが彼を「沈痛にして真摯な一個の思想家に一変させた」のかな、と想像する。

いずれにしても天から授かった才能だけで、世に立つことは、難しいのだろう、と思わされる。まあ、授かった才能があるからこそ、苦労を味わうことになる、とも言えるかもしれないのだけれども。

才能というのは、まあ、恐ろしいものだな。
[PR]
by tamaikoakihiro | 2015-10-11 11:09 | 作家 | Comments(0)

新宿、墓参

新宿のはずれにある寺に墓参のために出かけた。
小説家、古山高麗雄のお墓がある。
初めて訪ねたのは2013年の夏頃だったと思う。

事務所で場所を訪ねると、寺の人が丁寧に戒名とともに場所(番号)を紙に
書いてくれた。

持参していた煙草を二箱、供えた記憶がある。
a0153209_19322582.jpg

(写真は以前に撮影したもの)
本日は古山の遺族の方とともに墓参できた。

敗戦から70年である。

毎年八月には戦争を回顧するテレビ番組が
延々と流されることに、古山は嫌気を示していた。

それはそうだろうなあと思う。

あれほどの大事件のことを、1年のうち、数日間だけ
思い出させようというのだから、乱暴なのじゃないかな。

ずっと考え続けたって、いいわけだ。

戦場を経験した人の多くが、年中、思い出し、思い出させられていた
のじゃないかな、と想像する。

以前も書いたけれども、旧帝大の教授まで務めた
方が、八月の戦争関連の番組は一切見ない、と
断言するのを聞いたことがある。

表情には苦々しいものがあった。

私が訪ねて行くまで、家族や身近な人(戦友は除く)に
戦争体験を話したことはまったくなかったと仰っていた。

その方は、師範学校を出て訓導をしているときに
応召、中国で幹部候補生として教育を受け、
将校になった。

それから仏印に移り、敗戦を迎えた。

そうだ、あの方は中原会戦の経験も話して下さったのだった。
凄惨な光景だったようだ。

私に戦争の記憶はもちろん一切ない。
興味があってこれまで人に話を聞かせて貰った。

そういった折のことは、年中思い出す。八月のこの日はだから、
むしろ考えないなあ、と思う。
[PR]
by tamaikoakihiro | 2015-08-15 19:32 | 作家 | Comments(0)

ガダルカナル戦詩集

『文學界』の9月号に拙稿が掲載された。

載せて貰っていいのかしらと、いつでもどこでも
思うことを、また思った。
a0153209_21532591.jpg

*右側の本は『ガダルカナル戦記』(亀井宏・光文社)。この本は
間違いなくのちの時代に残る内容だと思う。

『ガダルカナル戦詩集』のことは、古山高麗雄の作品で知ったのだった。

古山と『ガダルカナル戦詩集』の作者、吉田嘉七は
同じ第二師団司令部の所属なのだった。

吉田の方は、戦中から詩を書いて、しかもそれが
発表されていた。古山も詩らしきものを、雲南の戦場で
冷たい雨に打たれながら書いていたらしい。

「戦場からの手紙」というエッセイで、古山がそのことを
書いていた、な。

二人は戦中、面識がなかったらしい。古山の方が
詩を書く下士官である吉田のことを、聞き知っていたらしい。

戦後、古山が芥川賞を受けて以後、付き合いが生じたようである。

しかしそれよりかなり前に、同じ雑誌に二人は
小説を発表していたのだった。

そんな縁についても、『文學界』では触れてみた。
詩はもちろんなのだが、詩人と小説家が二人、軍隊で縁を持っていたという
ことに、感銘を受けた記憶がある(10年ほど前に)。
[PR]
by tamaikoakihiro | 2015-08-07 21:58 | 作家 | Comments(0)
『戦争小説家 古山高麗雄伝』(平凡社)の見本を受領した。見本の日は緊張する。
a0153209_4315767.jpg

装丁は「斬新な感じ」といったようなとを、編集者のKさんから伺っていた。
書き文字というのだろうか、印象的な書体で
全体の美しさに感銘を受ける。

Amazonにも書影が出ていた。
http://www.amazon.co.jp/dp/4582836933

いろいろな方の助けを得て書けたものだから、
ありがたいな、と思う。

10年ほど前、戦時中の南方、とりわけ仏印に関して
取材を始めたころ、お目にかかった方が、こんなことを
言っていた。

「古山高麗雄という人にも、もし生きていたらぜひ
会ってみたかったよね」

その方も戦時中、仏印のサイゴンにいらしたのだけれども、
おそらく兵士として仏印を見た作家の記憶を聞きたかった
ということなのだろう。

その方の友人は、編集者として古山に戦後、接していたと
聞いて、その友人の方にも会いに行ったことがある。

いろいろ思い出す。本というのは、いろいろなことが
あって、出来上がるものなのだろうなあと、凡庸な
ことを、思う。

配本は8月5日。古山の誕生日の前日なのだった。
[PR]
by tamaikoakihiro | 2015-07-31 04:32 | 作家 | Comments(1)

仏印事変、1945年3月

「私は、私がこれまでに書いたものには、他にもさまざまに、
偏見や言い過ぎや事実誤認があるだろうと思う」――
古山高麗雄が、私小説「7・7・7」でそう書いている。

ときどき古山は、作中で過去の作品における自分の間違いを認め、
そのことについて書いている(ときどき、と書いてしまうと、
言い過ぎになるだろうか)。

なかなかできないことなのではないかと思う。

「7・7・7」は、敗戦の年の3月、日本軍がフランス植民地軍を
インドシナで打倒した「仏印事変」をテーマにしている。

そのなかで、北部仏印ランソンで俘虜を大量に殺害し、敗戦後、
戦犯裁判で有罪となり、処刑された将校たちの話が出て来る。

おそらく古山は、この将校たちと、サイゴン中央刑務所で近くに暮らしている。

サイゴン中央刑務所は、いま観光客が必ず行くベンタン市場
(旧称中央市場)の裏手あたりにあった。
a0153209_21283529.jpg

(刑務所の跡地から街中を見て。古山の『プレオー8の夜明け』では
刑務所の外から安南人の声が聞こえてくる様が書かれているが、
その様子を想像したなあ)

いまはなく、ビルになっているのだが、その場所の近くを通るたびに、
雑居房で、暗い収監生活を明るくしようと演劇をやる古山ら、
容疑者の姿を想像した。

前述の事件は、確か「ランソン事件」と呼ばれるのだが、
そうだ、ランソン事件で処刑された将校の部下だったという方の
お目にかかったことがあった。

「武人という雰囲気の方でしたね」と語っていた
(もちろん肯定的な意味で、である)。

その方がいた部隊は、南九州の編成で、
黄河のほとりから転戦して、仏印にいたり、
最後はタイで敗戦を迎えている。通称号「冬兵団」である。

冬兵団の元下士官の方には、鹿児島まで行って話を
伺ったこともあったなあ。10年前のことだと思う。

冬兵団の部隊誌というのは、立派な、大部なものだった。
「春訪れし大黄河」「夕日は赤しメナム河」という語呂の良い
タイトルは、今でも記憶している。

その中で寄稿されていた体験記が一つ、忘れられない。

一度帰国し、郷里で教員をしていた方が、戦犯容疑者として
授業をしている最中だったかに引き立てられ、巣鴨経由で
サイゴンまで送られたのではなかったかと思う。

その方の名前も覚えている。お目にかかりたいと、思ったからだろう。

「7・7・7」からいろいろなことを、思い出した。
たぶん記憶違いも、あるだろう。
[PR]
by tamaikoakihiro | 2015-07-15 21:37 | 作家 | Comments(0)

300万人

戦争とは何であったか? 国とは何か?
私は、そういう問いにうまく答えられない。
『断作戦』あとがき――

古山高麗雄は、こんな風に書いていた。
戦場で人の生死を間近に見て来た人だから、
「答えられない」のだろう、と思う。

「幸運にも生き残った私たち」と読者に語りかける
彼には、「生き残りとして何とか語り継がねば」
という「語り部」的な思いはなかった。これは繰り返し
書いていることでもある。

事の正邪であるとか、善悪であるとか、
そういうものを簡単に言うことはできないという
思いがあったのだろうなあ。

さて、家に戻る。
[PR]
by tamaikoakihiro | 2015-06-07 03:57 | 作家 | Comments(0)

ルナアル日記

一つの結果を手に入れるためにも、私はじっくり仕事をし、
しっかり自分を支え、そして辛抱強くやらなければならない――『ルナアル日記』

作家の古山高麗雄は、劇作家の岸田國士から若いとき
(といっても戦後)にルナアル日記の全七巻を貰い受けたという。

古山がその後、折に触れて読み込んだのではないかと思うのだが、
作家としての彼を支えたと推測したくなる言葉に出合う。
a0153209_12191752.jpg

一つの結果を……もその一つ。戦争三部作を書き上げるために
費やした二〇年近い年月を考えれば、である。

「一つの結果を……」の前には、こう書いてある。

「私は何を書いても、霊感を以て天才的に書くことはできない」

古山は一気呵成に書くタイプではなかったと思うし、
「書いては消し」に近い執筆スタイルであったことは、
自分でも書いている。

「辛抱強く」というのは、なるほど、結果を手に入れるよい方法なのだろうなあ。
[PR]
by tamaikoakihiro | 2015-05-16 12:20 | 作家 | Comments(0)
落葉、風を恨まず――ラクヨウ、カゼヲウラマズと読むらしい。
初めて接したとき、いい言葉だなと思った。
a0153209_17143019.jpg

漢詩か何かに元があるのだろうと想像しているけれども
わからない。誰かに教えてもらいたい。

知ったのは、七ヶ宿町の「古山高麗雄の世界」にあった資料を
見たとき。

本人もよく、その言葉を口にしていたらしい。

人を恨みたくなっても、それを恨まず、受け入れて、淡々と生きる。
淡々とできなくても淡々としている振りはする、とか。

そんなことも思ったりする。

上に挙げた写真は2005円の今頃、ベトナム南部チャウドックで
撮影したもの。古山の「デビュー作」である「墓地で」には
「チョイドックの連絡所」が出て来る。

チャウドックのことかなと想像している。なぜなら
娼婦のような「カンボジヤの水くみ」が登場するからだ。

発音が、今と違っていたり、わざと違えていたりすることも
あるだろう、と思う。
[PR]
by tamaikoakihiro | 2015-05-10 17:16 | 作家 | Comments(0)
「不公平というのは甘受するしかない」――戦犯にさせられて、
仏領インドシナに留め置かれた古山高麗雄の言葉には、
実感に支えられた諦観と優しさがあって、いいな、と思う。

この言葉は、対談「戦争は悲惨なだけじゃない」で語られている。

「不公平、不平等の中で人間が何を考えるか、どう生きるかを追求するのが私には面白い」

そうなのだなあ、不公平や不平等をこぼしたり、糾弾したって、
それは当たり前の「正義」だし、面白くはない。

正義を絶叫すればするほど、見えなくなるものが、たぶんたくさんあるのだと思う。

a0153209_1122217.jpg

(古山が最初、収監されていたチーホア監獄。獄中から鉄道が
見えたと書いてあった。サイゴン中央駅を出た汽車が、
いまのサイゴン駅のあたりからカーブして行くのが見えた
のだろう、と想像する)

古山の言葉を読み返すと、いつも、「マウンドにけちつけたって
しゃーない」という野球をやっていた頃の、自分なりの言葉も考える。

ま、自分以外の人間に、文句つけたって、あんまり面白くはないのだなあ。
a0153209_118719.jpg

(同じく古山が入っていたサイゴン中央刑務所跡地に建っていた建物。
今はどうなっているのかな)
[PR]
by tamaikoakihiro | 2015-04-12 01:15 | 作家 | Comments(0)