大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro

カテゴリ:雑感( 89 )

慰霊祭

池上本門寺の長い急な階段を上って、シンガポール・チャンギー殉難者慰霊祭に並んだ。末席を汚すという言葉が合うのかどうかわからないけれど、文字通り隅っこの席に座った。まだ当時の実際の体験者がご存命で驚いた。

昨年、チャンギー刑務所で刑死する人たちと向き合った田中師は亡くなったから、違う方が読経など、していた。

慰霊祭後の懇親会で隣り合った方は92歳。鉄道第9聯隊所属で、開戦前に北部仏印派遣、海南島移動後、開戦からまもなく、南タイのシンゴラに上陸し、シンガポールまで行ったという。

シンゴラと聞くと、大川塾生が領事館雇員として開戦前後に活躍した話を思い出した。92歳の方の隣にいらしたのは陸士53期の方。府立四中(現在の戸山高校)から陸士に入ったそうだ。

幼年学校のことが気になっていたので、幼年学校出身者と中学校出身者の違いなど、少し聞いてみた。

いろいろあって、いろいろきっかけが得られそうな一日だった。

でも池上は、遠いなあ。
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by tamaikoakihiro | 2011-10-16 21:15 | 雑感 | Comments(0)

北部ベトナム残留

ベトナムに住んでいたとき、最後のベトナム残留日本兵の方に話を聞かせて貰っていた。そのときのことを、思い出した。確か私が帰国してからそんなに経たずに亡くなられたのだった。

ベトナム残留日本兵のこと調べたら、その方のことに、誰もが行き当たるというくらい、よく知られた人だった。ベトナム戦争中、日本の新聞記者とも仲が良かったそうだから、それはそうなのだろう。

お住まいはサイゴン中心部から泥色の運河を渡って行った先にあって、細い路地のつきあたりのこぎれいな建物だった。

深くは伺わなかったが、どういうわけかベトナム人の一家とともに暮らしていた。私がバイクで訪れ、Oさんはいますかと玄関口で挨拶すると、若いベトナム人の男性が丁寧にいつも応対してくれるのだった。

通されると、Oさんはしばしば二階の自室にいらっしゃって、数人でテーブルを囲んで花札のようなものを楽しんでいた。

そんな団らんのひとときを邪魔して話を聞かせてくださいとは、何ともぶしつけな話だったはずだけれども、Oさんはいろいろとご自分のことや亡くなった友人のことなど、話して下さった。

友人の一人は、大川塾生だった。

意外だったのは、ベトナム北部で残留していた頃(ベトナムの南北分断前)、サイゴンの高専、南洋学院卒業生のKさんと、ハイフォン郊外で会ったことがあるということだった。

Kさんなら知っていた、いや面識はもちろんなかったけれども、日本で一度、Kさんの家に電話をかけて、亡くなったKさんの日記があると聞いているので、もしよければ見せてもらえないかと、奥様に尋ねたのだった。

しかしないとのことだった。

その日記のことを、Oさんに話したときだったか、記憶が定かでないが、亡くなったノンフィクション作家、角田房子さんがどこかでその日記をもとに書いていなかったかな、といったようなことを聞いたと記憶する。

Kさんはベトナム北部残留時はフランス植民地軍にいたから、フランスに縁があって、角田房子さんも確かフランスにゆかりのある人で……

とあれこれ想像しながら、Oさんのお住まいを辞去したこともあった。

帰りはいつも、Y字橋、というその名の通り、Y字型の橋を渡って帰った。そこは大戦中、南洋学院の学生たちが夕涼みにいつも散歩したというところなのだった。
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by tamaikoakihiro | 2011-08-05 23:27 | 雑感 | Comments(0)

ある考え方

戦争があるのに軍隊をなくすのは、泥棒がまだいるのに警察をなくすようなものである――そんな文言を、以前、東条英機の弁護を行った清瀬一郎の著書で見た。

それは東条英機の遺書に書かれた言葉として紹介されていたよう記憶する。

確かにそうだな、と思う。

しかしそうはならず、日本は軍隊を持たない国家として戦後はいちおうこれまで来たわけだ、自衛隊は軍隊ではないといいながら。

あと一月もすると、また敗戦(終戦)の日だからといって喧しくなるのだろう。
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by tamaikoakihiro | 2011-07-10 17:14 | 雑感 | Comments(0)

責められる

以前、元将校という3人に、食事をしながら半ば叱責されるように話を聞かせてもらったことがある。これまたこれくらいの暑い季節で、2004年のことだった。

北部仏印に展開していた第21師団の方なら誰であれ、話を聞いてみたいというめちゃくちゃな発想で、戦友会報をいくらか読み、ある戦友会の東京支部に連絡をとったのだった。

私は取材意図をうまく伝えられなかったようだ。

あのお三方は、私が、ベトナムで巷間に流布してしまっている「日本軍の駐屯による200万人餓死」説を私が追っており、その責任追及的な取材をしているものと理解されていたようだった。

私は左翼青年に取り違えられていたようだった。

だから誤った認識を糺すのだという意気込みで、私に向かわれたのだろう。

そうではなくて……と質問を切り出そうにも、一方的にいろいろと話をされてしまった。

苦い取材の記憶だなあ。

しかしあれはあれでよい勉強になった。自分の意図が明確に伝えられないようでは、取材になんか、なるわけがないのだろう。

それは最初に出した手紙がいい加減だったのだろう。

手紙は、私にとって、ちょっとした修行のツールのようだな。

そうだ、手紙一本ロクに書けないようでは、まともに書き物なんかできないんだなあと思ったりする。
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by tamaikoakihiro | 2011-07-07 23:00 | 雑感 | Comments(0)

天草

ある証言集を読んでいて、金子昇という人物――中野学校卒業生、インド工作、仏印での特殊工作などに関わった――が、天草の出身と知る。

仏印のフエで独立運動家と交流する拠点として設けた医院の名前は、同郷の友人の名前に因んでいた。園田直である。園田は戦後、外務大臣を務めた政治家でもある。松谷天光光との結婚でも知られる。

そして園田直は、仏印にも深い縁を持っていたことが、わかっている。

まあ、そのことはまた書いてみよう。

しかし中野学校生と政治家の郷里でのつながりとは……おもしろいな。
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by tamaikoakihiro | 2011-05-22 22:23 | 雑感 | Comments(0)

暗殺

ウサマ・ビンラディンが死んだ。「殺害」という言葉で言われているが、どうなのだろう、あれは「暗殺」ではないのだろうか。

使っている辞書にはこうある。

(主に政治的な理由で要人を)ひそかにねらって殺すこと。

殺害だと、どうも政治的な理由がないように感じられる。

しかし同盟国による暗殺を、暗殺とはそのまま使えないのが、現状なのであろう。
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by tamaikoakihiro | 2011-05-03 17:12 | 雑感 | Comments(0)
4月30日は、北ベトナムが南ベトナムの首都、サイゴンを落とした日である。毎年記念の祭りをやっていた。この日、多くのベトナム人が共産主義の侵攻を怖れ、国外に脱出した。その混乱は、動画投稿サイトで今も見られる。

ベトナムの友人は、兄がサイゴンに上京していて、アイスクリームを売ったりしていたというが、やはりこの日以降、アメリカに脱出したのだった。確か20歳以上離れた兄だった。その人の娘は立派にアメリカナイズされた感じで、写真を見せられたとき、驚いたものだった。

そうだ、あの大統領官邸の鉄門を打ち破った戦車隊。隊長はベトミン(ベトナム独立同盟)に敗戦後参加した日本人将校が指導したベトナム人将校だったという。その話は、当の日本人将校から聞いた。

大東亜戦争とベトナム戦争のつながりは、これだけでなく多々ある。
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by tamaikoakihiro | 2011-05-02 07:23 | 雑感 | Comments(0)

会いたい人の話

今、どうしても会いたい人がいるかと言われると、と勝手に問いをたてて、自ら「古山高麗雄」と答える。これほど国中で「がんばろう」が唱和され、「日本の強さを信じている」と臆面もなく言うCMが日々流れる状況に、彼ならどう感じただろう。

彼は反戦的な考えの持ち主として、ビルマ、仏印を転戦した。その考えを口に出すことはなかったが、寡黙で周囲とは壁を築いて交わらなかった。

戦後、日本は豊かになると、食うや食わずの時には言わなかった「労働は神聖なり」といったフレーズをもてあそぶようになり、そのことに彼は非常に強い違和感を表明していた。

反戦を錦の御旗とする「反戦使い」についてもどうようだった。そうだ、ベ平連が、1973年の和平協定以後、静かになったことを挙げて、本当に戦争反対なら、ラ平連、カ平連をつくればいいと揶揄した(ラはラオス、カはカンボジア)。

うーむ、何を言いたいのかわからなくなってきたが、まあとにかく今は、「進め一億火の玉だ」といった雰囲気を、手触りの感覚として持つにふさわしい時なのだろう。
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by tamaikoakihiro | 2011-04-14 07:44 | 雑感 | Comments(0)

戦時中

地震以後、情報の混乱、あるいは不足、その統制めいた話が出ると、「戦時中に戻ったみたい」「大本営発表だ」といった、戦時中をネガ一方で、半ば悪であることを前提として、持ち出す人の発言に接することになる。

違和感を覚える。

そもそもそういう風に発言している人たちが、戦時中の「実感」を持っているのかどうか。それが疑わしいから、違和感を覚える。

戦時中の「実感」を持つ人たちに、またはどれだけ接したことがあるのだろうか。

「実感」も持たずに、言葉だけに反応して何かを判断することは、あまりよくないのではないだろうか。

大川周明のつくった「東亜経済調査局附属研究所」(大川塾)を卒業したある方は、在籍時代に書いた自分たちの文章について、「それはあの時代だから」と前置きして、尽忠報国、神国といった言葉も使ったものだと、語っていた。

それは時代の雰囲気であり、制約だったのだろう。

後代の人たちが、自分より前の時代を、一方的に悪であるかのように形容することは、少なくとも敬意を払った姿勢とは思えない。
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by tamaikoakihiro | 2011-04-07 07:44 | 雑感 | Comments(0)

連絡

さる方から連絡を頂戴して、驚く。名前を言えば誰でも(たぶん)知っているだろうノンフィクション作家の方が、拙稿に関し、某雑誌で言及されていたということだった。現物はまだ確かめていない。引用されていたのだろうか。

その作家の方には、無謀にも掲載誌を昨年、お送りしていたのだった。

そういう「私の力作――と本人が信じている――を読んでくれ」式の話は、高名な方になるほど多いだろうから、目を通して下さらなくても、まあそれも仕方ないだろうと思っていた。

そしてお送りしていたことも、すっかり忘れていた。

そして今日、教えてもらった。

迂闊にも知らなかった。今度、図書館で探してみよう。
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by tamaikoakihiro | 2011-04-05 23:48 | 雑感 | Comments(0)