大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro

カテゴリ:雑感( 87 )

淡々と

『私の昭和史』(末松太平・中公文庫)を読んだ。二・二六事件関係者の書いた本、ということで手に取った。派手なところのない文章が大きな魅力だと思った。

私が敬愛する古山高麗雄は「キンキラキンの文章」を書くことに否定的だったけれども、『私の昭和史』では、淡々とした記述だから出せる悲哀の起伏というものを感じた。

三島由紀夫が同書を絶賛したとのことだが、三島のような人が認める質は、実に確かなものなのではと思う。

二・二六事件というと、私は文章として檄文調のものを常々想起してきたのだけれども、印象が大きく変わった。

上下で2000円に満たないのだから安いものだなあ。
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by tamaikoakihiro | 2013-05-06 05:47 | 雑感 | Comments(0)

メイキング

『戦艦武蔵ノート』(吉村昭・図書出版)を読む。禁欲的に過ぎるのではと思える取材姿勢は、いつも感じるところだけれども、そもそも『戦艦武蔵』という記録小説の記録(ノンフィクション)が成立するという点に驚きを覚える。

それくらい読むに退屈しない、というか興奮の続く一冊だ。

常に読者を念頭に書こう努めていることなど、作品自体には書き込まれなかったことども興味深く、こんな時間まで読んでいた。
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by tamaikoakihiro | 2012-11-21 02:58 | 雑感 | Comments(0)

難しいこと

縁というものは、やはりあると思う。今回はご縁がなかったということで……というような表現は、そうだ、就職活動のときに、よく目にしたと記憶する。

誰かに会って話を聞いて、教えて貰えるのも、縁があればこそ。

縁がなければ、それは、どうしようもない。縁を超えるものは、そうそうないと、思う。

これは諦めの類とも違う。難しいな。
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by tamaikoakihiro | 2012-09-02 14:05 | 雑感 | Comments(0)

不思議と

先日お目にかかって話を聞かせてもらった方から、関わっておられる同人誌が送られてきた。

その方の書かれた部分を読むと、ある時期、大東塾に接していた時期があるようだった。

大東塾のことは、本でちらりと知っただけだが、敗戦後、代々木練兵場で塾生ら14名が
割腹自殺しているという。

代々木公園は、二・二六事件関係者の処刑もそうだが、いろいろな歴史を吸って
今は緑に囲まれているのだと、思ったりする。
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by tamaikoakihiro | 2012-06-08 01:22 | 雑感 | Comments(0)

ぶったるんで

「ぶったるんでいるから気合いを入れてやる」と言われて引っぱたかれたという軍隊での経験を、作家・古山高麗雄がどこかで書いていたと記憶する。

しかしよく考えれば、たいていの人は概ねぶったるんでいるのはないかと思う。

自分に関して言えば、まったくそうだ。

電車の中で、やるべきことがあるのにぶったるんで寝ているし、
図書館で調べることがあるのに、ぶったるんでパソコンの設定を
いじっている。

直せばもっとよくなるかもしれないものを前にして、ぶったるんでこんなものを
書いている。

しかしそれこそ気合いを入れないとな。

少なくとも一人、読んでくれる人がいるのだから。

ぶったるんでいるのが人間の常だとしても、気合いを入れないと。
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by tamaikoakihiro | 2012-06-03 13:36 | 雑感 | Comments(0)

人生しょせん

古山高麗雄のことを考えると、『人生しょせん運不運』(草思社)を読みたくなる。

あの本で、要するに、運だ、とビルマ・雲南の戦場を経験した作家は言うのである。

死にたいと思っていた自分が生き残って、真面目に兵隊をやっていた
戦友が死ぬ。

そういう日々を過ごして、ある種の虚無感を抱えるようになったのではないか、とは
先日お目にかかった方のお話だが、私もそのように思う。

だからといって彼は、投げやりな運命論者ではなかったのではないかと想像する。

やれることはやる。

それが根底にあった姿勢ではないかな。
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by tamaikoakihiro | 2012-05-31 00:23 | 雑感 | Comments(0)

記憶

ある詩人のことを断続的に調べていて、その人の記憶を持つ人に会ったり
その詩人と縁のあった人の娘である方に会ったり。

輪郭が見えるようで、見えない。

この前、その詩人の葬儀が営まれた中野区の寺に行ってきた。

肌寒い日で、広い墓地の中を日暮れ時、その人の名前を刻んだ墓石を
探して二時間ばかりだったか、歩き回った。

結局見つからなかった。しかし墓石に刻まれた文字は切ないと思った。

20歳そこそこで大陸で戦死した人の墓石。永遠に若いその人の
墓石はすでに風雪にかなり削られている。

あるいは幼児期に亡くなった人の墓石。

歩き回って青梅街道に出ると、日が暮れていた。
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by tamaikoakihiro | 2012-04-20 23:28 | 雑感 | Comments(0)

装飾

客観描写なんてありえないのだろうが、大岡昇平をまた、読み直してみよう。

よい文章ってなんですか、と考えてみてのこと。

余計な装飾がなくて、それでいて装飾的な事柄も正確に「感じさせる」ことができるものじゃないかと思ったり。

正確に描けば、それが感情を喚起するし、感嘆の思いをを呼び起こすことができるのだろう、と思ったり。

確か古山高麗雄が「キンキラキンの文章はよくない」といったことを書いていた。「キンキラキン」は確かに良くない。
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by tamaikoakihiro | 2012-04-11 23:52 | 雑感 | Comments(0)

慰霊祭

池上本門寺の長い急な階段を上って、シンガポール・チャンギー殉難者慰霊祭に並んだ。末席を汚すという言葉が合うのかどうかわからないけれど、文字通り隅っこの席に座った。まだ当時の実際の体験者がご存命で驚いた。

昨年、チャンギー刑務所で刑死する人たちと向き合った田中師は亡くなったから、違う方が読経など、していた。

慰霊祭後の懇親会で隣り合った方は92歳。鉄道第9聯隊所属で、開戦前に北部仏印派遣、海南島移動後、開戦からまもなく、南タイのシンゴラに上陸し、シンガポールまで行ったという。

シンゴラと聞くと、大川塾生が領事館雇員として開戦前後に活躍した話を思い出した。92歳の方の隣にいらしたのは陸士53期の方。府立四中(現在の戸山高校)から陸士に入ったそうだ。

幼年学校のことが気になっていたので、幼年学校出身者と中学校出身者の違いなど、少し聞いてみた。

いろいろあって、いろいろきっかけが得られそうな一日だった。

でも池上は、遠いなあ。
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by tamaikoakihiro | 2011-10-16 21:15 | 雑感 | Comments(0)

北部ベトナム残留

ベトナムに住んでいたとき、最後のベトナム残留日本兵の方に話を聞かせて貰っていた。そのときのことを、思い出した。確か私が帰国してからそんなに経たずに亡くなられたのだった。

ベトナム残留日本兵のこと調べたら、その方のことに、誰もが行き当たるというくらい、よく知られた人だった。ベトナム戦争中、日本の新聞記者とも仲が良かったそうだから、それはそうなのだろう。

お住まいはサイゴン中心部から泥色の運河を渡って行った先にあって、細い路地のつきあたりのこぎれいな建物だった。

深くは伺わなかったが、どういうわけかベトナム人の一家とともに暮らしていた。私がバイクで訪れ、Oさんはいますかと玄関口で挨拶すると、若いベトナム人の男性が丁寧にいつも応対してくれるのだった。

通されると、Oさんはしばしば二階の自室にいらっしゃって、数人でテーブルを囲んで花札のようなものを楽しんでいた。

そんな団らんのひとときを邪魔して話を聞かせてくださいとは、何ともぶしつけな話だったはずだけれども、Oさんはいろいろとご自分のことや亡くなった友人のことなど、話して下さった。

友人の一人は、大川塾生だった。

意外だったのは、ベトナム北部で残留していた頃(ベトナムの南北分断前)、サイゴンの高専、南洋学院卒業生のKさんと、ハイフォン郊外で会ったことがあるということだった。

Kさんなら知っていた、いや面識はもちろんなかったけれども、日本で一度、Kさんの家に電話をかけて、亡くなったKさんの日記があると聞いているので、もしよければ見せてもらえないかと、奥様に尋ねたのだった。

しかしないとのことだった。

その日記のことを、Oさんに話したときだったか、記憶が定かでないが、亡くなったノンフィクション作家、角田房子さんがどこかでその日記をもとに書いていなかったかな、といったようなことを聞いたと記憶する。

Kさんはベトナム北部残留時はフランス植民地軍にいたから、フランスに縁があって、角田房子さんも確かフランスにゆかりのある人で……

とあれこれ想像しながら、Oさんのお住まいを辞去したこともあった。

帰りはいつも、Y字橋、というその名の通り、Y字型の橋を渡って帰った。そこは大戦中、南洋学院の学生たちが夕涼みにいつも散歩したというところなのだった。
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by tamaikoakihiro | 2011-08-05 23:27 | 雑感 | Comments(0)