大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro

カテゴリ:雑感( 90 )

思い出せば恥ずかしい

京都は、行くたびにあれこれ思い出すけれども、どれもだいたい恥ずかしい。

大学一年生の夏休み、京都の大学に進んだ高校時代の友人のところに泊めてもらうつもりで、札幌から日本海側を通って自転車で行った。

携帯電話をお互い持っていなかったから、留守電で連絡を取り合っていた気がする。

友人は合宿だとかで、アパートにいなかった。

野宿は慣れていたけれども、京都の街中というのは少し抵抗があった。五条大橋の下で休んでいたら、大学生風の人に話しかけられた。下宿に泊めてくれるというのであった。

伏見の方の下宿に、泊めてもらった。大きな家の部屋のいくつかに大学生がわかれて住んでいる風であった。面白い人で、その後、タイに留学したと聞いた。

そのあとまた京都中心部に戻って、堺町通りのあたりの公園で野宿をしようとしていたら、初老の、品の良さそうな男性に声をかけられた。話すうちに「うちに泊まりなさい」と言われた。

連れて行かれたのは町家というのか、細い入口を入ると、中は広くなっていた(記憶がある)。その男性は医者をしていると言った(と思う)。綺麗な部屋で寝させてもらって翌朝辞去した。恥ずかしいというのは、名前もろくに聞かずに泊まったことである。礼状の一つも出さなかった。

大学二年の夏、九州を野宿で回った折にはいろいろなところで寝た。鹿児島では墓場で寝た。熊本では野菜販売所で寝た。キャンプ場はお金がかかるから、ほとんど行かなかった。

そうだ、大分の浜で寝ようとしていたら、若い男性に話しかけられた。しばらくするとその人はどこかへ消えた。戻ってきたときにはアイスとパンを持って来てくれた。その人の名前も、聞かなかった。

竹田のあたりで寝ようとしていたら、近所の人が来て、話をした。その後、おにぎりをもって来てくれた。その女性の名前も聞かなかった。

台風襲来前夜、宮崎の都井岬近くで寝ようとしていたら、地元の男性に声をかけられた。家に招かれ、食事を頂き、泊めて貰った。この方の名前はさすがに聞いた。年賀状のやりとりもしばらくした。
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(写真は本文に無関係の調布飛行場での一枚)

とはいえ行く先々で何と礼儀を知らぬ人間であったかと、思うだけで本当に恥ずかしい。

人の厚意を受けて当たり前という思い上がりがあったのではないかと考える。何の特権があってそんなことを考えていたのか不思議だけれども、ひどい大学生だったなあ。

その特権がはぎ取られるとき、つまり就職するときは、散々不合格なんてものを頂戴したけれども、まあ故なく得た特権にあぐらをかいていた身、文句を言うことなどできなかったわけだ。
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by tamaikoakihiro | 2014-11-24 08:29 | 雑感 | Comments(0)

南方の病

以前、戦中に仏領インドシナに行っていた方から、彼の地でマラリアになり、戦後もときどきその症状が出た、といった話を伺った(もしかしたらその方の手記で読んだのかも)記憶がある。

今、デング熱が話題になっていて、ある新聞を見たら、コラム欄で「太平洋戦争のとき、ガダルカナルや東部ニューギニアで日本軍将兵をさいなんだのは飢餓とともにマラリアであった」とあった。

ガダルカナルや東部ニューギニアに限らず、多分ビルマもそうであったろうと思う。手記や戦記の類を見ていると、「悪疫瘴癘の地」の病として、マラリアはだいたい出て来る。

これはただの感想だけれども、従軍を経験した世代が圧倒的に多かった20年~30年前なら、ガダルカナルや東部ニューギニアだけと受け取れるような書き方はできなかったのじゃないかな。

戦争を知る世代が減ると、ものの書かれ方も、たぶん変わるのだろうな、とぼんやり思った。
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by tamaikoakihiro | 2014-09-03 05:33 | 雑感 | Comments(0)

病院の前

神戸に住んでいたのは、あの人工島ができて間もない頃だったと思うのだけれども、いろいろ周りにあるものが目新しく、それまで住んでいた埼玉の田舎に比べ先進的だった記憶がある。

自動改札を初めて見たのもあの島に行く新(!)交通システムの駅でのことだったなあ。やたらと新しく、1980年代なんて日本中だいたい同じだったとは考えるものの、あの島はキンキラキンに明るい感じたした。なんだかすべてが明るかった。

博覧会なんて賑々しいものもやっていたし、出向いた会場で迷子になったときのために書かされる紙に、父親が自宅の電話番号を書けなかったのも、軽い衝撃であった。
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(写真は内容に無関係。サイゴンにあった建物)

山を削ってその土で埋め立てた、というなんだか嘘っぽい由来の島は、夏になるとちゃんと蝉が鳴いた。島をつくるときの過程は、「北公園」という素っ気ない駅の近くにたつビルの上の階の展示室のようなところで、ミニチュアで再現してあった(と記憶する)。

蝉が鳴くのは、削ってきた山の土のなかに蝉の幼虫がいたからだろうと、誰かが言っていて、それを聞いて真に受けた。まあ実際がそうだったのだろう。

島を離れて10年後、大地震で韜晦した建物の群れをテレビで見て、現実離れしているから何とも感想も浮かばなかった。

たまにGoogleのストリートビューで見ると、あの人工島で過ごした数年間を思い出して、どうも焦るような懐かしさに駆られる。埼玉にはまったく懐かしさを覚えないから、何か特別な時間だったのかもしれないと思う。

といって再訪したとしても昔の知り合いなんて一人もいないのだが。ああそうだ、自宅に最寄りの駅は「市民病院前」という名前だったはずだけれども、今はもうそれが変わっているらしい。
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by tamaikoakihiro | 2014-07-13 19:21 | 雑感 | Comments(0)

旧制中学

高校で野球をやっていたころ、OBで、その学校が旧制中学であった時代に活躍された方が練習を見に来ることがあった。20年ほど前のことである。80歳くらいにお見受けした。

その方は卒業後、草創期の職業野球に進まれたと聞いた。東京セネタースに在籍されたのだったか。あの旧制中学からは二人、職業野球の選手が生まれたのであった。立派な「野球部史」を図書館で見つけ、読んだ記憶もある。

当時は戦前のことになんてまるで興味がなかったから、いろいろ聞いたり知ったりしたこともほとんど忘れてしまった。

あの方の話では、極寒の中、練習をして、そのあと飲ませて貰った紅茶がうまかった、という挿話をなぜか、よく覚えている。

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戦後、その方は母校(私の母校でもあるんだが)の監督として、昭和30年代に甲子園に導いている。部室のロッカーにほこりを被って甲子園でのスコアブックが残っていた。対戦相手は九州の名門・鎮西とあったと記憶する。(写真は内容に無関係の、仙台・榴ヶ岡公園)

ああ、そうだ、そのスコアブックを見つけたとき結構な興奮を覚えたのであった。でもそこから歴史を掘り下げたいとか、そんな気持ちを持たず、ただ興奮したのであった。

自分の性向なんて、10代では、うまいこと、定義づけられないんだなあ。

それから10年後、戦争の時代を調べ始めたとき、お目にかかった一人は、母校を旧制中学時代に卒業された方なのであった。

以上のようなことを思い出したのは、『幻の甲子園 戦時下の球児たち』(早坂隆・文春文庫)を読み出したからだろう。

どれくらい貴重な機会を自分はこれまで見逃してきたのか、と感じる。率直に、自分の疑問や感興を伝えていれば、誰かが教えてくれたはずだろうなあ。

そろそろ甲子園の予選が始まるなあとも思う。ベンチでふてくされていた自分を思い出すと、何とも恥ずかしい。
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by tamaikoakihiro | 2014-07-06 10:08 | 雑感 | Comments(0)
戦前の朝鮮・新義州に育った方が、内地に初めて来て驚いたことの一つに、日本人が肉体労働をしている光景を見たことを挙げていた。

大日本帝国は東アジアで見れば、台湾、朝鮮半島に及んでいたわけだけれども(満洲はいろいろ議論があるようなので、よくわからない。とりあえずここでは除く)、概ね肉体労働は植民地では、日本人がやる仕事ではなかったようである。

その方から拝借した資料にも、同じような驚きをつづった文章があった。

何もこういった人種に由来する話は日本に限ったことではないはずで、フランス領印度支那に戦時中いた方々からも「安南人」とフランス人の間にある懸隔に関する話はよく伺った。

「人種なんて今さら」という話もあるのだろう。とはいってもたかだか数十年前のことを、大昔の遺物のようには、どうも感じられないのだなあ。

「人がもう昔のことだよってというのって、たいていは今のことなんだよなあ」と、誰かが言っていた。

そうなのかもしれない。

今日家に帰ってくると、平凡社の「こころ」(第19号)が届いていた。『一〇〇人が綴る「私の思い出の一冊」』という、平凡社創業一〇〇年を記念した特集の号である。
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声を掛けてくれたKさんには、何ともお礼のしようもなく、この2年、特に何もしていないのに、と申し訳なくもなる。

植民地があった時代のことを、これまで何人かの方に聞いていたのだけれども、あるとき、京都の小さな駅の近くの喫茶店で、ある方から直截に言われて、人種に由来する“別種”の感覚が、かつて明確に存在していたことに、納得する思いを持った。

要するに有色人種への差別、であるのだなあ。

その思いを補強されたのが、ジョン・W・ダワー「容赦なき戦争」を読んでのこと。読後に抱いた感情等々、機会を得たので書いてみた。

立派な赤い装いの「こころ」になんだか感動する。

ああ、そうだ、新卒で入ったあの会社には、校閲部に「世界大百科事典」があった。違う階へ降りていって、調べ物をするふりをして、適当に行き当たった項目を読んだ記憶がよみがえった、な。

CD-ROMの「世界大百科事典」ではひたすらゴキブリのことを読み返した。あれはどこにいったのだろう。ゴキブリは気になる存在だった。アパートに頻繁に出没したから。

あの会社に拾ってもらえたのは、ゴキブリについて書いた作文のできが割合良かったせいだと、今も思っている。そういうわけで、平凡社といえば百科事典、それはサボりのお友だちなのである。
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by tamaikoakihiro | 2014-06-07 00:01 | 雑感 | Comments(0)

漫画で知ったことから

「ゾルゲ」という名前は、手塚治虫の『アドルフに告ぐ』で知った。あれは小学生の頃だったのかなと思い出す。今日、『ゾルゲ事件 覆された神話』(加藤哲郎・平凡社)を読み始めた。

知識がそもそも不足しているのだけれども、読み進めるうちに緊迫感が高まるのを感じる。筆致は穏やかでも、それは感じる。

興味を覚えたのは、ゾルゲ事件を語ることが、冷戦期、一種の情報戦になっていたということ(誤読かもしれないが)。

考えてみると、ある事件・事象を語るということは、背景の考えを示すことでもあるわけだ。ゾルゲや尾崎秀実をどう見るか、でその語り手の立場も明らかにされる、ということになるのだろう。

ある対象を語ることは、自分を語ること――そんなよく言われる話を、思い出した。
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by tamaikoakihiro | 2014-03-25 23:03 | 雑感 | Comments(0)
「己のなすことを愛せ」とかいうセリフを、何だったか、イタリアの青春映画の中で聞いて、いたく感動した覚えがある。それを言ったのは老人だったなあ。

タイトルは、思い出した、『ニューシネマパラダイス』だった。

己のなすこと、なんて大仰な感じがしてしまうものの、そうだ、サイゴンの旧正月は美しかったし、それを感じて歩くのは、確かに楽しかった(愛していたかどうかはわからない)。

花々が公園や市場に溢れ、日本の早春の光に似た空の明るさがこの時期から感じられるようになるのだった。三カ月もすれば曇天がちな雨季に入るのだ。

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代表的な花の名前は、「ホアマイ」だったなあ。

その頃、親しくしてくれていたベトナムの友人は、新年を郷里で迎えたらしい。南部の小さな街である。近くにはベトナム戦争の激戦地の一つ、ビンジアという場所がある。確か米軍部隊が解放戦線に結構な打撃を与えられた場所と記憶する(違うかもしれない)。

友人はあの年、そのビンジアが近い実家に招いてくれて、二泊、させてもらった。大晦日の日にサイゴンを発ったような気がする。友人の実家の裏にはコショウ畑があった。生で齧るとうまかった。

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サイゴンを出た日は薄ら寒かったけれども、次第に暑くなって、正月の日にはサトウキビジュースをたくさん飲みたくなるくらい、暑かった。友人宅でスイカもご馳走になった。

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旧正月(テト)、おめでとうございます。

チャットで話しかけると、当時と変わらない調子で、いくらかふざけて「よう、お前!!」とベトナム語で応じてくれる友人に、よい年が始まることを、ちょっと祈る。
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そうして本を読み出すと、カバー裏から、あのとき友人の導きで買った、宝くじが出てきた。当たっていたかどうかは確認しなかった。

でもまあ、八年後に、いい思いをさせてくれるのだから、当たりとしておこう。
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by tamaikoakihiro | 2014-02-01 05:36 | 雑感 | Comments(0)

フィクサー

「学部生の卒論なんてのは、自分がいかにそのテーマを愛しているかってことを、書きゃあいいんですから」と、あの教授は言ったのだった。学部随一の「フィクサー」とかどこかに書かれていたけれども、フィクサーたる所以は知らなかった。いまも知らない。

自分の愛好しているものを、人に理解して貰うのは難しいし、その魅力を綴って読み進めて貰うのはまた難しいだろうなあ。だからあの教授が言ったのは、別に学部生の卒論だけのことでもないのだろう、と思う。

「愛する事もなく利用することばかりを知っている『研究』がなんであらうか」(武田泰淳)という文章に今日、接した。

「愛する」とは重厚な響きだけれども、とまれことの出発点であり、終着点なのだろうなあ。
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by tamaikoakihiro | 2013-11-10 21:06 | 雑感 | Comments(0)

気がする

意志のないものに絶望などあろうはずがないじゃありませんか――「いのちの初夜」(北條民雄)に見える言葉。北條はハンセン病(癩病)により24歳で亡くなった作家。作品は『火花――北條民雄の生涯』(高山文彦)で知った。

知らない作家のことを、よい作品を通じて知ることができるというのは、ありがたいことだなと感じる。自分が知れることの範囲はごく狭いけれども、少し運がよければ、そういう風にして、新しいところに立てる、かもしれないのだなあ。

意志も絶望も、明確には持たないものの、よい言葉に出会うとそれはそれで幸せに近づいた気がする。あくまで気がする、程度なのだけれども。
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by tamaikoakihiro | 2013-11-07 04:19 | 雑感 | Comments(0)

界隈

この前の土曜日、早稲田界隈に行ってきた。

大学の構内に入ると、見覚えのない高いビルがいくつかあって見上げた。
古めかしいのは、少なくなっているようだった。

十数年前、何をするわけでなく、少しの友人と、ときどき話して部屋との間を往復して
いたことを思い出した。

時間をつぶすために図書館に入ったら、当時、せっせと映画を視聴するためにAVルームに通った
頃のことがよみがえった。

羞恥を覚えずして回想できる過去などないわけだけれども、いまだって恥ずかしいことに変わりはないのだなあ。
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by tamaikoakihiro | 2013-10-08 02:43 | 雑感 | Comments(0)