大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro

カテゴリ:雑感( 89 )

紙幣

1000ドン札が、出てきた。小銭である。
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ベトナムにいた頃、何に使っていたかなと思う。コーヒー代が道ばたで飲むと5000ドンくらいだったような記憶があるから、そういうときに使っていたのかもしれない。2000ドン札というのもあった気がする。

日常的に使っていたはずなのに、具体的にはあまり思い出せない。

それよりも、ベンチェーという、メコンデルタの入り口のような街のバスターミナルの公衆便所で、使用料を払うのに、500ドン札を出したら、「これでは少なすぎる」と番をしている少女に指摘された場面を思い出す。

日差しの強い日で、泊まった古いホテルで「昔ここでベンチェー蜂起というのがあったんですよね?」と生半可な知識をベトナム語で披露したら、何十倍ものベトナム語で説明されて狼狽したのだった。
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by tamaikoakihiro | 2016-01-03 17:34 | 雑感 | Comments(0)
ホーチミン市3区に住んでいた頃(といっても1年半くらいだったか)、勤めを終えて帰宅して食事をとって、それから散歩に出ることが、たまにあった。
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市中心部から郊外へ続く通りまですぐで、そこに出ると、夜風にあたるべくバイクを流す人たちがいて、賑やかに営業する鶏肉のうまい店があったり、新参のドラッグストアがあったり、何となく、良い感じだった。

夜だけれども、都会らしいというべきなのか、小さな子供たちの姿も見た気がする。

ときどき、路上で販売している肉まんを買った。売り手はデッキチェアというのか、仰向けになれるくらいの椅子に体を横たえていて、呼びかけるとのそのそと準備してくれるのだった。
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「こんな時間に……」とは思わなかったのは、一つには私が人の親になっていなかったからだろうと思う。

人の親といえば、ベトナムに移り住む直前、父親が末期癌を宣告されて、入院した。埼玉のだいぶ奥の方の、ある医科大学の付属病院だった。プロ野球チームのある町の家からだと、往復四時間くらいかかった気がする。毎日見舞った。

これは何にも自慢にならない。毎日行けたのは、無職だったからである。そして「ベトナムに行ったら働く」と言う私を、父親はどれだけ頼りなく見ていたかは、今となってはわからない。

移住して二週間ほどで、亡くなったとの連絡をもらった。

「親の死に目に会えない」という使い古された言葉があるけれども、そういう次第なのだったな。

10年前のことだから、忘れたことも多いけれども、見舞いのために乗ったローカル線の車窓に映った風景とか、病院の寒々とした雰囲気とか、ごく一瞬の細部は、記憶からなかなか消えないものだなと思う。
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by tamaikoakihiro | 2015-11-04 22:14 | 雑感 | Comments(0)

勉強

『戦後文壇覚え書』(杉森久英・河出書房新社)の中で、「勉強というものは日のあたらないところでするものでね」と杉森が語っている。続けてこんな風に。「朝から晩まで、自分よりもすぐれた人だとか、賑やかな環境の中であるきまわっていたんじゃね」

まだまだこれから沢山読んでみたい作家だけれども、『天才と狂人の間』『夕日将軍 小説・石原莞爾』といった評伝は面白いし、『アジアの憂鬱』『昭和史みたまま』などの随筆も面白いなと感じる。

古書店に猛烈に注文したのだけれども、本棚が限界に近づきつつあることが残念。

杉森は熊谷中学で教えていたという。今の熊谷高校にあたるのかな。夏、熊谷に行った時点では、そんなことも知らなかったから、街を眺めても何も思わなかった。

残念なことを、したものだ。知らないと、もの思うことも、できないわけだ。
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by tamaikoakihiro | 2015-10-10 01:41 | 雑感 | Comments(0)
通っていた高校の近くに有名な鰻屋があって、うまいことは当時から知っていた。

野球部の先輩から聞かされたのだったか。

在学中はもちろん行く機会なんてなかった。今年八月、行ってみたら、ひどい混雑で同行の方に大変な迷惑をかけてしまった。

高校の近所には、500円で山盛りの焼きそばを食わせてくれる駄菓子屋があったな。野球部の練習が終わったあと、ときどき行くのが楽しみだった。

店番をしている年輩の女性(おばあちゃん)がいた。「釣りが50円のはずなのに500円が返ってきた」なんて噂もあったけれど、すてきな店だった。

今もあるのだろうか。

制服がなくて、校則もなくて、進学実績をあげようとがんばる教員もいない公立高校だったから、精神的には気楽だった。

ただ「何の束縛も感じなかった」というと嘘になる。

教室から体育館に入るとき、上履きを「体育館シューズ」というのに替えなければならないのだけれども、横着して普段から体育館シューズを履いていると、屈強(そう)な体育教員に怒鳴りつけられる、というのがあったな。

あれは束縛だ。いいじゃんか、どうせ鳩の糞で汚れまくっている体育館なんだしさ、と。

男子校だったのは良かった。着るものに頓着しなくて良いし、汗臭さだとか自分の分泌するいやなものすべてを気に懸ける必要がない。

音楽の女性の講師には、みんなが疑似恋愛していたようだった。ああいうのも、恥ずかしい記憶として貴重だな。

ただ野球だけ、やっていれば、まあ、幸せを感じ、また不幸せも味わえたのだったなあ。

そうだ、同級生との、ちゃんとした付き合いは、京都方面に棲みついたSさんとしかない。

だからか、Sさんとたまに会うと、当時のことを思い出して、いろいろ話が尽きない。Sさんは、吹奏楽部だったから、その方面の友人といまも付き合いが多いらしい。実にうらやましく感じる。

野球部では控え選手だったから、どうもレギュラーの同級生と懸隔を感じていて、その感覚は今も残っているのだな。

それもあって、本を読むようになったのかもしれない。そして本を読んで文章を書くことについては、Sさんの姿勢に、当時から触発されることが多かった(と思う、大げさだけれども)。

いい同級生に会えて、幸運だったなと思う。

高校のことをあれこれ思い出したのは、ノーベル賞を受賞した方が、同じ高校のだいぶ上の卒業生だったと、先ほど新聞で知ったから。

高校時代を思い出して、あの恥ずかしくも何か愉快で、昂揚と陰鬱が入り交じった不思議な感覚が、みぞおちのあたりでもぞもぞしている。
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by tamaikoakihiro | 2015-10-07 22:10 | 雑感 | Comments(0)
4月30日が、今年も終わった。サイゴン陥落だの、
解放だのと言われた1975年から40年。

10年前、30周年の祝賀行事をサイゴンで見た。

北ベトナム正規軍の戦車がなだれ込んできたという通りが、
自転車レースのゴールになっていた。

観客というか人々がやたらと集まっていたな。

2007年の4月30日は、旅行者としてでなく、そこに何となく
居住している日本人として、迎えた。

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戦後、保守と目された人々は、ベトナムの独立運動が共産主義の体裁を
とりながらも、それは民族主義が本質であることを見抜いていた。

だから共産党の中国とも1979年に戦火を交えている。

そんなあれこれを毎年、この時期には思い出し、サイゴンに住む
旧友に連絡をしたりしている。
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by tamaikoakihiro | 2015-05-02 17:48 | 雑感 | Comments(0)
『ドクター・ハック』(平凡社・中田整一)を読み始めた。

ドイツ人スパイと日本の戦争との関わりを、これから
読み込めるのだろうと、思っている。

冒頭に近いところで、この「ドクター・ハック」という人が、
満鉄の東亜経済調査局に入社していることが紹介されている。

満鉄の規模というか、包容力というか、実にさまざまな人が
関わっていることは、さまざまな本に書かれている。

大川周明のことを、思い出した。

今年は戦後70年。ご存命の大川塾の弟子の方々も、メディアの
取材を受けているのだろう。

さて、読書に戻る。
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by tamaikoakihiro | 2015-03-30 03:57 | 雑感 | Comments(0)

比叡の山は雪深し

京都に朝7時につくと、何もすることがないから祇園四条近くの喫茶店で時間を潰した。

外を見ると、ときどき雪が舞った。

それから宮川町、八坂神社近くを歩いた。遊郭が、昔はあったらしい。
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こういう場所は、朝静かな時間に歩くのが、いいなあ。
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京都大学の方にも行った。学生がたくさんいて、自由に出入りできる。

「自由」を掲げてきた旧制第三高等学校のことも思われた。
三高の歴史をまとめた展示室を見られたのは嬉しかった。

通りの名前にもいちいち京都を感じた。
「近衛」なんて、東京では近衛師団司令部くらいしか、ないかなあ。
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20年前、埼玉から友人と二人、ちょうどこの月の下旬、京都に来た。受験のためであった。

友人は京都大学を、私は京都府立大学を受けて、落ちた。

そうだ、結果を知らせる電報のサービスに申し込んだのだった。

合格なら「カモノカワラニサクラサク」。
不合格なら「ヒエイノヤマハユキフカシ」というのである。
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で、後日、ユキフカシをもらった。変に詩的なのだなあ。
いまどきはネットで番号を自分でみつけておしまい、だろうか。

試験の前日、宿泊したホテルで、高熱を発した。友人がポカリスエットと風邪薬を買って来てくれた気がするけれども、定かではないなあ。

夕食はコンビニの何かで済ませた記憶がある。

そんなことなど、思い出した。友人にまた、尋ねてみたい。

京阪電車で30分、昔これまた遊郭があったという町に行った。
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寂しい感じだったけれども、歴史があるのは、いいことだなあ。

1930年代からあるとかいう、喫茶店にも行ってみた。

京都は行くたびに、あれこれ思い出す。
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by tamaikoakihiro | 2015-02-11 17:42 | 雑感 | Comments(0)
「行雲流水」という言葉を、いつからか覚えて、気に入っていた。大辞林によると「空行く雲や流れる水のように、一事に執着せず、自然にまかせて行動すること」だそう。

なるほど、英語にすると、let it beかなあ。いや違うか。

元は中国の言葉らしい。

欲を言えば切りがないし、我を張れば、いくらでも張れそうだけれども、ま、我の正体とは、小物の自分に他ならないだろうから、張っても無駄だろうなあと思ったり。

しかし「行雲流水」なる言葉をつくった人は(いるとすれば)、やはり一事に執着してしまう人だったのではないかな。

昔、Eaglesの「Take it easy」を聞いていたら、「そんなこと歌うEaglesってのは、Take it easyができなかったに違いないね」と言った友人がいた。「いや、そりゃ、いい意味でね」と。

なるほど、と思った。できないことを、言葉にして、せめて慰めを得る、ということか。

歌ってのはそういうものなんだろうなあ。
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by tamaikoakihiro | 2015-01-12 07:47 | 雑感 | Comments(0)

友人からの電話

正月に、久し振りに友人のSくんから電話があった。

Sくんは万事に辛辣というか、敏感な関西人である。
予備校時代に鉛筆を忘れたとかで話しかけられて以来、
友人づきあいをさせてもらっている。

近況を報告しあううちに正月に見たテレビ番組の話になった。
(こちらはもっぱら聞く側であったが)。

「日本の芸能人が、マレーシアかどこかで日本製品を物々交換して
旅行するような企画があったね」とSくん。

私はテレビに興味が薄いので、「そうなの」と答えた。

「どう思うよ、そういうの。日本人のある種の思考様式が
よく出ていると思ったんだけれどね」

Sくんは関西人だが、東京が長く、微妙な東京弁(?)を話す。
だからここでも関西弁では書かない。

「思考様式って?」と私。

「日本のつくっているものは誰にでも受け入れられるよいもの、
であるとか、だから受け入れられて当然とか、なんつーのか、
そういう考え方がよ、独善的じゃねえ?」

「なるほどね」と私。

「いや、テレビの企画だから芸能人がモノを出せば、マレーシアの人は
『いいよ』と言ってくれるわけだ」とSくん。

さらに言う。「ディレクターとかが、現地の日本人コーディネーターに指示を出して、
相手の人に了解を事前に取り付けているんだろうし」

Sくんはほんの数十秒見ただけで、チャンネルを変えたそうである。

「でもな、もし日本に来たアメリカ人とかイギリス人とか、日本にとって
戦勝国の国籍の人間が、同じことをやる番組をつくっていたら、
どう受け止めるんだよ、日本のマスコミ関係者は」と続けるSくん。

「彼らは傲慢だとか、日本も舐められたもんだとか、少しは憤るんじゃねえ?
その逆をやっているんじゃないかと、思ったんだけれど、どう思うよ?」

Sくんは割合、愛国的なのかもしれない。そしてこうも言った。

「要するに、優越意識があるから、『アジアで日本製品を使って物々交換』
なんて発想ができるんじゃないか、と言えるんじぇねえの?」

辛辣だが、最後は強く断言しないのがSくんである。結論らしきものを、投げかけてくるのである。

そのあと、話はまた別の方向に向かった。だから結局、彼の真意はわからない。

しかしSくんの提示する話題は毎回、面白い、というか興味深い、というか。

日本のアジア関与というと堅苦しいけれども、かつての南方、
現在の東南アジアと日本の関係には、私もいつも関心がある。

いま、アジアは一つの市場であり、日本ならびに日本企業はそこでチャンス
を開拓すべきだという論調に、世間は異を唱えない感じだろうなあ。
今年はアセアンの経済統合があるんだったか。

テレビは一般に多くの人の心に沿うものだという考えに間違いがない
とすれば、テレビ番組がアジアを取り上げるとき、
それが日本人の多くの人のアジアに対する心情を映しているのだろうか。

もしSくんの言う優越意識が日本人にあるとしたら、
それは他国の人にどう受け止められているのだろうか、
と少し、気になった。
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by tamaikoakihiro | 2015-01-04 16:38 | 雑感 | Comments(0)

思い出せば恥ずかしい

京都は、行くたびにあれこれ思い出すけれども、どれもだいたい恥ずかしい。

大学一年生の夏休み、京都の大学に進んだ高校時代の友人のところに泊めてもらうつもりで、札幌から日本海側を通って自転車で行った。

携帯電話をお互い持っていなかったから、留守電で連絡を取り合っていた気がする。

友人は合宿だとかで、アパートにいなかった。

野宿は慣れていたけれども、京都の街中というのは少し抵抗があった。五条大橋の下で休んでいたら、大学生風の人に話しかけられた。下宿に泊めてくれるというのであった。

伏見の方の下宿に、泊めてもらった。大きな家の部屋のいくつかに大学生がわかれて住んでいる風であった。面白い人で、その後、タイに留学したと聞いた。

そのあとまた京都中心部に戻って、堺町通りのあたりの公園で野宿をしようとしていたら、初老の、品の良さそうな男性に声をかけられた。話すうちに「うちに泊まりなさい」と言われた。

連れて行かれたのは町家というのか、細い入口を入ると、中は広くなっていた(記憶がある)。その男性は医者をしていると言った(と思う)。綺麗な部屋で寝させてもらって翌朝辞去した。恥ずかしいというのは、名前もろくに聞かずに泊まったことである。礼状の一つも出さなかった。

大学二年の夏、九州を野宿で回った折にはいろいろなところで寝た。鹿児島では墓場で寝た。熊本では野菜販売所で寝た。キャンプ場はお金がかかるから、ほとんど行かなかった。

そうだ、大分の浜で寝ようとしていたら、若い男性に話しかけられた。しばらくするとその人はどこかへ消えた。戻ってきたときにはアイスとパンを持って来てくれた。その人の名前も、聞かなかった。

竹田のあたりで寝ようとしていたら、近所の人が来て、話をした。その後、おにぎりをもって来てくれた。その女性の名前も聞かなかった。

台風襲来前夜、宮崎の都井岬近くで寝ようとしていたら、地元の男性に声をかけられた。家に招かれ、食事を頂き、泊めて貰った。この方の名前はさすがに聞いた。年賀状のやりとりもしばらくした。
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(写真は本文に無関係の調布飛行場での一枚)

とはいえ行く先々で何と礼儀を知らぬ人間であったかと、思うだけで本当に恥ずかしい。

人の厚意を受けて当たり前という思い上がりがあったのではないかと考える。何の特権があってそんなことを考えていたのか不思議だけれども、ひどい大学生だったなあ。

その特権がはぎ取られるとき、つまり就職するときは、散々不合格なんてものを頂戴したけれども、まあ故なく得た特権にあぐらをかいていた身、文句を言うことなどできなかったわけだ。
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by tamaikoakihiro | 2014-11-24 08:29 | 雑感 | Comments(0)