大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro

カテゴリ:雑感( 86 )

通っていた高校の近くに有名な鰻屋があって、うまいことは当時から知っていた。

野球部の先輩から聞かされたのだったか。

在学中はもちろん行く機会なんてなかった。今年八月、行ってみたら、ひどい混雑で同行の方に大変な迷惑をかけてしまった。

高校の近所には、500円で山盛りの焼きそばを食わせてくれる駄菓子屋があったな。野球部の練習が終わったあと、ときどき行くのが楽しみだった。

店番をしている年輩の女性(おばあちゃん)がいた。「釣りが50円のはずなのに500円が返ってきた」なんて噂もあったけれど、すてきな店だった。

今もあるのだろうか。

制服がなくて、校則もなくて、進学実績をあげようとがんばる教員もいない公立高校だったから、精神的には気楽だった。

ただ「何の束縛も感じなかった」というと嘘になる。

教室から体育館に入るとき、上履きを「体育館シューズ」というのに替えなければならないのだけれども、横着して普段から体育館シューズを履いていると、屈強(そう)な体育教員に怒鳴りつけられる、というのがあったな。

あれは束縛だ。いいじゃんか、どうせ鳩の糞で汚れまくっている体育館なんだしさ、と。

男子校だったのは良かった。着るものに頓着しなくて良いし、汗臭さだとか自分の分泌するいやなものすべてを気に懸ける必要がない。

音楽の女性の講師には、みんなが疑似恋愛していたようだった。ああいうのも、恥ずかしい記憶として貴重だな。

ただ野球だけ、やっていれば、まあ、幸せを感じ、また不幸せも味わえたのだったなあ。

そうだ、同級生との、ちゃんとした付き合いは、京都方面に棲みついたSさんとしかない。

だからか、Sさんとたまに会うと、当時のことを思い出して、いろいろ話が尽きない。Sさんは、吹奏楽部だったから、その方面の友人といまも付き合いが多いらしい。実にうらやましく感じる。

野球部では控え選手だったから、どうもレギュラーの同級生と懸隔を感じていて、その感覚は今も残っているのだな。

それもあって、本を読むようになったのかもしれない。そして本を読んで文章を書くことについては、Sさんの姿勢に、当時から触発されることが多かった(と思う、大げさだけれども)。

いい同級生に会えて、幸運だったなと思う。

高校のことをあれこれ思い出したのは、ノーベル賞を受賞した方が、同じ高校のだいぶ上の卒業生だったと、先ほど新聞で知ったから。

高校時代を思い出して、あの恥ずかしくも何か愉快で、昂揚と陰鬱が入り交じった不思議な感覚が、みぞおちのあたりでもぞもぞしている。
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by tamaikoakihiro | 2015-10-07 22:10 | 雑感 | Comments(0)
4月30日が、今年も終わった。サイゴン陥落だの、
解放だのと言われた1975年から40年。

10年前、30周年の祝賀行事をサイゴンで見た。

北ベトナム正規軍の戦車がなだれ込んできたという通りが、
自転車レースのゴールになっていた。

観客というか人々がやたらと集まっていたな。

2007年の4月30日は、旅行者としてでなく、そこに何となく
居住している日本人として、迎えた。

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戦後、保守と目された人々は、ベトナムの独立運動が共産主義の体裁を
とりながらも、それは民族主義が本質であることを見抜いていた。

だから共産党の中国とも1979年に戦火を交えている。

そんなあれこれを毎年、この時期には思い出し、サイゴンに住む
旧友に連絡をしたりしている。
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by tamaikoakihiro | 2015-05-02 17:48 | 雑感 | Comments(0)
『ドクター・ハック』(平凡社・中田整一)を読み始めた。

ドイツ人スパイと日本の戦争との関わりを、これから
読み込めるのだろうと、思っている。

冒頭に近いところで、この「ドクター・ハック」という人が、
満鉄の東亜経済調査局に入社していることが紹介されている。

満鉄の規模というか、包容力というか、実にさまざまな人が
関わっていることは、さまざまな本に書かれている。

大川周明のことを、思い出した。

今年は戦後70年。ご存命の大川塾の弟子の方々も、メディアの
取材を受けているのだろう。

さて、読書に戻る。
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by tamaikoakihiro | 2015-03-30 03:57 | 雑感 | Comments(0)

比叡の山は雪深し

京都に朝7時につくと、何もすることがないから祇園四条近くの喫茶店で時間を潰した。

外を見ると、ときどき雪が舞った。

それから宮川町、八坂神社近くを歩いた。遊郭が、昔はあったらしい。
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こういう場所は、朝静かな時間に歩くのが、いいなあ。
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京都大学の方にも行った。学生がたくさんいて、自由に出入りできる。

「自由」を掲げてきた旧制第三高等学校のことも思われた。
三高の歴史をまとめた展示室を見られたのは嬉しかった。

通りの名前にもいちいち京都を感じた。
「近衛」なんて、東京では近衛師団司令部くらいしか、ないかなあ。
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20年前、埼玉から友人と二人、ちょうどこの月の下旬、京都に来た。受験のためであった。

友人は京都大学を、私は京都府立大学を受けて、落ちた。

そうだ、結果を知らせる電報のサービスに申し込んだのだった。

合格なら「カモノカワラニサクラサク」。
不合格なら「ヒエイノヤマハユキフカシ」というのである。
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で、後日、ユキフカシをもらった。変に詩的なのだなあ。
いまどきはネットで番号を自分でみつけておしまい、だろうか。

試験の前日、宿泊したホテルで、高熱を発した。友人がポカリスエットと風邪薬を買って来てくれた気がするけれども、定かではないなあ。

夕食はコンビニの何かで済ませた記憶がある。

そんなことなど、思い出した。友人にまた、尋ねてみたい。

京阪電車で30分、昔これまた遊郭があったという町に行った。
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寂しい感じだったけれども、歴史があるのは、いいことだなあ。

1930年代からあるとかいう、喫茶店にも行ってみた。

京都は行くたびに、あれこれ思い出す。
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by tamaikoakihiro | 2015-02-11 17:42 | 雑感 | Comments(0)
「行雲流水」という言葉を、いつからか覚えて、気に入っていた。大辞林によると「空行く雲や流れる水のように、一事に執着せず、自然にまかせて行動すること」だそう。

なるほど、英語にすると、let it beかなあ。いや違うか。

元は中国の言葉らしい。

欲を言えば切りがないし、我を張れば、いくらでも張れそうだけれども、ま、我の正体とは、小物の自分に他ならないだろうから、張っても無駄だろうなあと思ったり。

しかし「行雲流水」なる言葉をつくった人は(いるとすれば)、やはり一事に執着してしまう人だったのではないかな。

昔、Eaglesの「Take it easy」を聞いていたら、「そんなこと歌うEaglesってのは、Take it easyができなかったに違いないね」と言った友人がいた。「いや、そりゃ、いい意味でね」と。

なるほど、と思った。できないことを、言葉にして、せめて慰めを得る、ということか。

歌ってのはそういうものなんだろうなあ。
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by tamaikoakihiro | 2015-01-12 07:47 | 雑感 | Comments(0)

友人からの電話

正月に、久し振りに友人のSくんから電話があった。

Sくんは万事に辛辣というか、敏感な関西人である。
予備校時代に鉛筆を忘れたとかで話しかけられて以来、
友人づきあいをさせてもらっている。

近況を報告しあううちに正月に見たテレビ番組の話になった。
(こちらはもっぱら聞く側であったが)。

「日本の芸能人が、マレーシアかどこかで日本製品を物々交換して
旅行するような企画があったね」とSくん。

私はテレビに興味が薄いので、「そうなの」と答えた。

「どう思うよ、そういうの。日本人のある種の思考様式が
よく出ていると思ったんだけれどね」

Sくんは関西人だが、東京が長く、微妙な東京弁(?)を話す。
だからここでも関西弁では書かない。

「思考様式って?」と私。

「日本のつくっているものは誰にでも受け入れられるよいもの、
であるとか、だから受け入れられて当然とか、なんつーのか、
そういう考え方がよ、独善的じゃねえ?」

「なるほどね」と私。

「いや、テレビの企画だから芸能人がモノを出せば、マレーシアの人は
『いいよ』と言ってくれるわけだ」とSくん。

さらに言う。「ディレクターとかが、現地の日本人コーディネーターに指示を出して、
相手の人に了解を事前に取り付けているんだろうし」

Sくんはほんの数十秒見ただけで、チャンネルを変えたそうである。

「でもな、もし日本に来たアメリカ人とかイギリス人とか、日本にとって
戦勝国の国籍の人間が、同じことをやる番組をつくっていたら、
どう受け止めるんだよ、日本のマスコミ関係者は」と続けるSくん。

「彼らは傲慢だとか、日本も舐められたもんだとか、少しは憤るんじゃねえ?
その逆をやっているんじゃないかと、思ったんだけれど、どう思うよ?」

Sくんは割合、愛国的なのかもしれない。そしてこうも言った。

「要するに、優越意識があるから、『アジアで日本製品を使って物々交換』
なんて発想ができるんじゃないか、と言えるんじぇねえの?」

辛辣だが、最後は強く断言しないのがSくんである。結論らしきものを、投げかけてくるのである。

そのあと、話はまた別の方向に向かった。だから結局、彼の真意はわからない。

しかしSくんの提示する話題は毎回、面白い、というか興味深い、というか。

日本のアジア関与というと堅苦しいけれども、かつての南方、
現在の東南アジアと日本の関係には、私もいつも関心がある。

いま、アジアは一つの市場であり、日本ならびに日本企業はそこでチャンス
を開拓すべきだという論調に、世間は異を唱えない感じだろうなあ。
今年はアセアンの経済統合があるんだったか。

テレビは一般に多くの人の心に沿うものだという考えに間違いがない
とすれば、テレビ番組がアジアを取り上げるとき、
それが日本人の多くの人のアジアに対する心情を映しているのだろうか。

もしSくんの言う優越意識が日本人にあるとしたら、
それは他国の人にどう受け止められているのだろうか、
と少し、気になった。
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by tamaikoakihiro | 2015-01-04 16:38 | 雑感 | Comments(0)

思い出せば恥ずかしい

京都は、行くたびにあれこれ思い出すけれども、どれもだいたい恥ずかしい。

大学一年生の夏休み、京都の大学に進んだ高校時代の友人のところに泊めてもらうつもりで、札幌から日本海側を通って自転車で行った。

携帯電話をお互い持っていなかったから、留守電で連絡を取り合っていた気がする。

友人は合宿だとかで、アパートにいなかった。

野宿は慣れていたけれども、京都の街中というのは少し抵抗があった。五条大橋の下で休んでいたら、大学生風の人に話しかけられた。下宿に泊めてくれるというのであった。

伏見の方の下宿に、泊めてもらった。大きな家の部屋のいくつかに大学生がわかれて住んでいる風であった。面白い人で、その後、タイに留学したと聞いた。

そのあとまた京都中心部に戻って、堺町通りのあたりの公園で野宿をしようとしていたら、初老の、品の良さそうな男性に声をかけられた。話すうちに「うちに泊まりなさい」と言われた。

連れて行かれたのは町家というのか、細い入口を入ると、中は広くなっていた(記憶がある)。その男性は医者をしていると言った(と思う)。綺麗な部屋で寝させてもらって翌朝辞去した。恥ずかしいというのは、名前もろくに聞かずに泊まったことである。礼状の一つも出さなかった。

大学二年の夏、九州を野宿で回った折にはいろいろなところで寝た。鹿児島では墓場で寝た。熊本では野菜販売所で寝た。キャンプ場はお金がかかるから、ほとんど行かなかった。

そうだ、大分の浜で寝ようとしていたら、若い男性に話しかけられた。しばらくするとその人はどこかへ消えた。戻ってきたときにはアイスとパンを持って来てくれた。その人の名前も、聞かなかった。

竹田のあたりで寝ようとしていたら、近所の人が来て、話をした。その後、おにぎりをもって来てくれた。その女性の名前も聞かなかった。

台風襲来前夜、宮崎の都井岬近くで寝ようとしていたら、地元の男性に声をかけられた。家に招かれ、食事を頂き、泊めて貰った。この方の名前はさすがに聞いた。年賀状のやりとりもしばらくした。
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(写真は本文に無関係の調布飛行場での一枚)

とはいえ行く先々で何と礼儀を知らぬ人間であったかと、思うだけで本当に恥ずかしい。

人の厚意を受けて当たり前という思い上がりがあったのではないかと考える。何の特権があってそんなことを考えていたのか不思議だけれども、ひどい大学生だったなあ。

その特権がはぎ取られるとき、つまり就職するときは、散々不合格なんてものを頂戴したけれども、まあ故なく得た特権にあぐらをかいていた身、文句を言うことなどできなかったわけだ。
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by tamaikoakihiro | 2014-11-24 08:29 | 雑感 | Comments(0)

南方の病

以前、戦中に仏領インドシナに行っていた方から、彼の地でマラリアになり、戦後もときどきその症状が出た、といった話を伺った(もしかしたらその方の手記で読んだのかも)記憶がある。

今、デング熱が話題になっていて、ある新聞を見たら、コラム欄で「太平洋戦争のとき、ガダルカナルや東部ニューギニアで日本軍将兵をさいなんだのは飢餓とともにマラリアであった」とあった。

ガダルカナルや東部ニューギニアに限らず、多分ビルマもそうであったろうと思う。手記や戦記の類を見ていると、「悪疫瘴癘の地」の病として、マラリアはだいたい出て来る。

これはただの感想だけれども、従軍を経験した世代が圧倒的に多かった20年~30年前なら、ガダルカナルや東部ニューギニアだけと受け取れるような書き方はできなかったのじゃないかな。

戦争を知る世代が減ると、ものの書かれ方も、たぶん変わるのだろうな、とぼんやり思った。
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by tamaikoakihiro | 2014-09-03 05:33 | 雑感 | Comments(0)

病院の前

神戸に住んでいたのは、あの人工島ができて間もない頃だったと思うのだけれども、いろいろ周りにあるものが目新しく、それまで住んでいた埼玉の田舎に比べ先進的だった記憶がある。

自動改札を初めて見たのもあの島に行く新(!)交通システムの駅でのことだったなあ。やたらと新しく、1980年代なんて日本中だいたい同じだったとは考えるものの、あの島はキンキラキンに明るい感じたした。なんだかすべてが明るかった。

博覧会なんて賑々しいものもやっていたし、出向いた会場で迷子になったときのために書かされる紙に、父親が自宅の電話番号を書けなかったのも、軽い衝撃であった。
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(写真は内容に無関係。サイゴンにあった建物)

山を削ってその土で埋め立てた、というなんだか嘘っぽい由来の島は、夏になるとちゃんと蝉が鳴いた。島をつくるときの過程は、「北公園」という素っ気ない駅の近くにたつビルの上の階の展示室のようなところで、ミニチュアで再現してあった(と記憶する)。

蝉が鳴くのは、削ってきた山の土のなかに蝉の幼虫がいたからだろうと、誰かが言っていて、それを聞いて真に受けた。まあ実際がそうだったのだろう。

島を離れて10年後、大地震で韜晦した建物の群れをテレビで見て、現実離れしているから何とも感想も浮かばなかった。

たまにGoogleのストリートビューで見ると、あの人工島で過ごした数年間を思い出して、どうも焦るような懐かしさに駆られる。埼玉にはまったく懐かしさを覚えないから、何か特別な時間だったのかもしれないと思う。

といって再訪したとしても昔の知り合いなんて一人もいないのだが。ああそうだ、自宅に最寄りの駅は「市民病院前」という名前だったはずだけれども、今はもうそれが変わっているらしい。
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by tamaikoakihiro | 2014-07-13 19:21 | 雑感 | Comments(0)

旧制中学

高校で野球をやっていたころ、OBで、その学校が旧制中学であった時代に活躍された方が練習を見に来ることがあった。20年ほど前のことである。80歳くらいにお見受けした。

その方は卒業後、草創期の職業野球に進まれたと聞いた。東京セネタースに在籍されたのだったか。あの旧制中学からは二人、職業野球の選手が生まれたのであった。立派な「野球部史」を図書館で見つけ、読んだ記憶もある。

当時は戦前のことになんてまるで興味がなかったから、いろいろ聞いたり知ったりしたこともほとんど忘れてしまった。

あの方の話では、極寒の中、練習をして、そのあと飲ませて貰った紅茶がうまかった、という挿話をなぜか、よく覚えている。

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戦後、その方は母校(私の母校でもあるんだが)の監督として、昭和30年代に甲子園に導いている。部室のロッカーにほこりを被って甲子園でのスコアブックが残っていた。対戦相手は九州の名門・鎮西とあったと記憶する。(写真は内容に無関係の、仙台・榴ヶ岡公園)

ああ、そうだ、そのスコアブックを見つけたとき結構な興奮を覚えたのであった。でもそこから歴史を掘り下げたいとか、そんな気持ちを持たず、ただ興奮したのであった。

自分の性向なんて、10代では、うまいこと、定義づけられないんだなあ。

それから10年後、戦争の時代を調べ始めたとき、お目にかかった一人は、母校を旧制中学時代に卒業された方なのであった。

以上のようなことを思い出したのは、『幻の甲子園 戦時下の球児たち』(早坂隆・文春文庫)を読み出したからだろう。

どれくらい貴重な機会を自分はこれまで見逃してきたのか、と感じる。率直に、自分の疑問や感興を伝えていれば、誰かが教えてくれたはずだろうなあ。

そろそろ甲子園の予選が始まるなあとも思う。ベンチでふてくされていた自分を思い出すと、何とも恥ずかしい。
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by tamaikoakihiro | 2014-07-06 10:08 | 雑感 | Comments(0)