大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro

カテゴリ:雑感( 91 )

「葬儀には、みんなが姿を見せた」――この一文で始まる大部のノンフィクション『輝ける嘘』(菊谷匡祐訳・集英社)を読んだのは10年以上前だけれども、もう参ってしまった記憶がある。

上下2冊を飽かず読み通した。ベトナム戦争のノンフィクションといえば、何となくハルバースタムのことを思い浮かべるけれども、いや、違うなあ、『輝ける嘘』だな、と思う。少なくとも自分にとっては大きな感銘を受けた作品であるな。
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by tamaikoakihiro | 2016-02-15 22:29 | 雑感 | Comments(0)
ベトナムに行く前、戦時中のサイゴンを知る方々に話を聞いて回った。テト(旧正月)の美しさを語ってくれる方がいた。花々に埋まって――といった表現をされていたと記憶する。
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2006年だから、10年前、ベトナムで二度目のテトを迎えた。花々が公園を埋めるように売り出され、買い求める人がいたり、企業などでは園芸の業者から良いものを鉢で借りていた、と思う。
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以前も書いたけれど、バリア・ブンタウ省に実家のある友人の実家にお邪魔した。胡椒農園を持つ御宅で、「電気が来たのは僕が高校生のときだよ」と友人は言っていた。2006年時点で、友人は、たしか28歳だったと思う。
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日本語に堪能な、本当に聡明な友人で、いろいろと教えてもらったけれども、あのときのテトは忘れがたいなあ。最近は無音に過ぎている。近々ベトナムに、行けたらなあと思う。
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あの頃は、会社勤めで疲弊した時期もあったものの、ベトナムの友人たち(といっても二人)のありがたい支えというか、大げさに言うと二人の生き方というか雰囲気というか。そういうものに助けられたのだった。

10年たって、感傷的になる。
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by tamaikoakihiro | 2016-02-07 05:46 | 雑感 | Comments(0)

紙幣

1000ドン札が、出てきた。小銭である。
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ベトナムにいた頃、何に使っていたかなと思う。コーヒー代が道ばたで飲むと5000ドンくらいだったような記憶があるから、そういうときに使っていたのかもしれない。2000ドン札というのもあった気がする。

日常的に使っていたはずなのに、具体的にはあまり思い出せない。

それよりも、ベンチェーという、メコンデルタの入り口のような街のバスターミナルの公衆便所で、使用料を払うのに、500ドン札を出したら、「これでは少なすぎる」と番をしている少女に指摘された場面を思い出す。

日差しの強い日で、泊まった古いホテルで「昔ここでベンチェー蜂起というのがあったんですよね?」と生半可な知識をベトナム語で披露したら、何十倍ものベトナム語で説明されて狼狽したのだった。
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by tamaikoakihiro | 2016-01-03 17:34 | 雑感 | Comments(0)
ホーチミン市3区に住んでいた頃(といっても1年半くらいだったか)、勤めを終えて帰宅して食事をとって、それから散歩に出ることが、たまにあった。
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市中心部から郊外へ続く通りまですぐで、そこに出ると、夜風にあたるべくバイクを流す人たちがいて、賑やかに営業する鶏肉のうまい店があったり、新参のドラッグストアがあったり、何となく、良い感じだった。

夜だけれども、都会らしいというべきなのか、小さな子供たちの姿も見た気がする。

ときどき、路上で販売している肉まんを買った。売り手はデッキチェアというのか、仰向けになれるくらいの椅子に体を横たえていて、呼びかけるとのそのそと準備してくれるのだった。
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「こんな時間に……」とは思わなかったのは、一つには私が人の親になっていなかったからだろうと思う。

人の親といえば、ベトナムに移り住む直前、父親が末期癌を宣告されて、入院した。埼玉のだいぶ奥の方の、ある医科大学の付属病院だった。プロ野球チームのある町の家からだと、往復四時間くらいかかった気がする。毎日見舞った。

これは何にも自慢にならない。毎日行けたのは、無職だったからである。そして「ベトナムに行ったら働く」と言う私を、父親はどれだけ頼りなく見ていたかは、今となってはわからない。

移住して二週間ほどで、亡くなったとの連絡をもらった。

「親の死に目に会えない」という使い古された言葉があるけれども、そういう次第なのだったな。

10年前のことだから、忘れたことも多いけれども、見舞いのために乗ったローカル線の車窓に映った風景とか、病院の寒々とした雰囲気とか、ごく一瞬の細部は、記憶からなかなか消えないものだなと思う。
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by tamaikoakihiro | 2015-11-04 22:14 | 雑感 | Comments(0)

勉強

『戦後文壇覚え書』(杉森久英・河出書房新社)の中で、「勉強というものは日のあたらないところでするものでね」と杉森が語っている。続けてこんな風に。「朝から晩まで、自分よりもすぐれた人だとか、賑やかな環境の中であるきまわっていたんじゃね」

まだまだこれから沢山読んでみたい作家だけれども、『天才と狂人の間』『夕日将軍 小説・石原莞爾』といった評伝は面白いし、『アジアの憂鬱』『昭和史みたまま』などの随筆も面白いなと感じる。

古書店に猛烈に注文したのだけれども、本棚が限界に近づきつつあることが残念。

杉森は熊谷中学で教えていたという。今の熊谷高校にあたるのかな。夏、熊谷に行った時点では、そんなことも知らなかったから、街を眺めても何も思わなかった。

残念なことを、したものだ。知らないと、もの思うことも、できないわけだ。
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by tamaikoakihiro | 2015-10-10 01:41 | 雑感 | Comments(0)
通っていた高校の近くに有名な鰻屋があって、うまいことは当時から知っていた。

野球部の先輩から聞かされたのだったか。

在学中はもちろん行く機会なんてなかった。今年八月、行ってみたら、ひどい混雑で同行の方に大変な迷惑をかけてしまった。

高校の近所には、500円で山盛りの焼きそばを食わせてくれる駄菓子屋があったな。野球部の練習が終わったあと、ときどき行くのが楽しみだった。

店番をしている年輩の女性(おばあちゃん)がいた。「釣りが50円のはずなのに500円が返ってきた」なんて噂もあったけれど、すてきな店だった。

今もあるのだろうか。

制服がなくて、校則もなくて、進学実績をあげようとがんばる教員もいない公立高校だったから、精神的には気楽だった。

ただ「何の束縛も感じなかった」というと嘘になる。

教室から体育館に入るとき、上履きを「体育館シューズ」というのに替えなければならないのだけれども、横着して普段から体育館シューズを履いていると、屈強(そう)な体育教員に怒鳴りつけられる、というのがあったな。

あれは束縛だ。いいじゃんか、どうせ鳩の糞で汚れまくっている体育館なんだしさ、と。

男子校だったのは良かった。着るものに頓着しなくて良いし、汗臭さだとか自分の分泌するいやなものすべてを気に懸ける必要がない。

音楽の女性の講師には、みんなが疑似恋愛していたようだった。ああいうのも、恥ずかしい記憶として貴重だな。

ただ野球だけ、やっていれば、まあ、幸せを感じ、また不幸せも味わえたのだったなあ。

そうだ、同級生との、ちゃんとした付き合いは、京都方面に棲みついたSさんとしかない。

だからか、Sさんとたまに会うと、当時のことを思い出して、いろいろ話が尽きない。Sさんは、吹奏楽部だったから、その方面の友人といまも付き合いが多いらしい。実にうらやましく感じる。

野球部では控え選手だったから、どうもレギュラーの同級生と懸隔を感じていて、その感覚は今も残っているのだな。

それもあって、本を読むようになったのかもしれない。そして本を読んで文章を書くことについては、Sさんの姿勢に、当時から触発されることが多かった(と思う、大げさだけれども)。

いい同級生に会えて、幸運だったなと思う。

高校のことをあれこれ思い出したのは、ノーベル賞を受賞した方が、同じ高校のだいぶ上の卒業生だったと、先ほど新聞で知ったから。

高校時代を思い出して、あの恥ずかしくも何か愉快で、昂揚と陰鬱が入り交じった不思議な感覚が、みぞおちのあたりでもぞもぞしている。
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by tamaikoakihiro | 2015-10-07 22:10 | 雑感 | Comments(0)
4月30日が、今年も終わった。サイゴン陥落だの、
解放だのと言われた1975年から40年。

10年前、30周年の祝賀行事をサイゴンで見た。

北ベトナム正規軍の戦車がなだれ込んできたという通りが、
自転車レースのゴールになっていた。

観客というか人々がやたらと集まっていたな。

2007年の4月30日は、旅行者としてでなく、そこに何となく
居住している日本人として、迎えた。

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戦後、保守と目された人々は、ベトナムの独立運動が共産主義の体裁を
とりながらも、それは民族主義が本質であることを見抜いていた。

だから共産党の中国とも1979年に戦火を交えている。

そんなあれこれを毎年、この時期には思い出し、サイゴンに住む
旧友に連絡をしたりしている。
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by tamaikoakihiro | 2015-05-02 17:48 | 雑感 | Comments(0)
『ドクター・ハック』(平凡社・中田整一)を読み始めた。

ドイツ人スパイと日本の戦争との関わりを、これから
読み込めるのだろうと、思っている。

冒頭に近いところで、この「ドクター・ハック」という人が、
満鉄の東亜経済調査局に入社していることが紹介されている。

満鉄の規模というか、包容力というか、実にさまざまな人が
関わっていることは、さまざまな本に書かれている。

大川周明のことを、思い出した。

今年は戦後70年。ご存命の大川塾の弟子の方々も、メディアの
取材を受けているのだろう。

さて、読書に戻る。
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by tamaikoakihiro | 2015-03-30 03:57 | 雑感 | Comments(0)

比叡の山は雪深し

京都に朝7時につくと、何もすることがないから祇園四条近くの喫茶店で時間を潰した。

外を見ると、ときどき雪が舞った。

それから宮川町、八坂神社近くを歩いた。遊郭が、昔はあったらしい。
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こういう場所は、朝静かな時間に歩くのが、いいなあ。
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京都大学の方にも行った。学生がたくさんいて、自由に出入りできる。

「自由」を掲げてきた旧制第三高等学校のことも思われた。
三高の歴史をまとめた展示室を見られたのは嬉しかった。

通りの名前にもいちいち京都を感じた。
「近衛」なんて、東京では近衛師団司令部くらいしか、ないかなあ。
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20年前、埼玉から友人と二人、ちょうどこの月の下旬、京都に来た。受験のためであった。

友人は京都大学を、私は京都府立大学を受けて、落ちた。

そうだ、結果を知らせる電報のサービスに申し込んだのだった。

合格なら「カモノカワラニサクラサク」。
不合格なら「ヒエイノヤマハユキフカシ」というのである。
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で、後日、ユキフカシをもらった。変に詩的なのだなあ。
いまどきはネットで番号を自分でみつけておしまい、だろうか。

試験の前日、宿泊したホテルで、高熱を発した。友人がポカリスエットと風邪薬を買って来てくれた気がするけれども、定かではないなあ。

夕食はコンビニの何かで済ませた記憶がある。

そんなことなど、思い出した。友人にまた、尋ねてみたい。

京阪電車で30分、昔これまた遊郭があったという町に行った。
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寂しい感じだったけれども、歴史があるのは、いいことだなあ。

1930年代からあるとかいう、喫茶店にも行ってみた。

京都は行くたびに、あれこれ思い出す。
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by tamaikoakihiro | 2015-02-11 17:42 | 雑感 | Comments(0)
「行雲流水」という言葉を、いつからか覚えて、気に入っていた。大辞林によると「空行く雲や流れる水のように、一事に執着せず、自然にまかせて行動すること」だそう。

なるほど、英語にすると、let it beかなあ。いや違うか。

元は中国の言葉らしい。

欲を言えば切りがないし、我を張れば、いくらでも張れそうだけれども、ま、我の正体とは、小物の自分に他ならないだろうから、張っても無駄だろうなあと思ったり。

しかし「行雲流水」なる言葉をつくった人は(いるとすれば)、やはり一事に執着してしまう人だったのではないかな。

昔、Eaglesの「Take it easy」を聞いていたら、「そんなこと歌うEaglesってのは、Take it easyができなかったに違いないね」と言った友人がいた。「いや、そりゃ、いい意味でね」と。

なるほど、と思った。できないことを、言葉にして、せめて慰めを得る、ということか。

歌ってのはそういうものなんだろうなあ。
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by tamaikoakihiro | 2015-01-12 07:47 | 雑感 | Comments(0)