大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro

カテゴリ:雑感( 87 )

『証言その時々』(大岡昇平・講談社学術文庫)を読み直した。「群像」に寄稿した随筆があった。

「戦争を知らない人間は、半分は子供である」と、私は昭和二十六年『野火』の中に書いた。
これは私の書いたものの中で、評判の悪い句である。若い人の批判があり、私信で抗議がよく来る――とあった。

そのあとを読むと、「戦争を知らない同年配の人に向って、アイロニーとしていったつもり」だったことが書かれている。

そうだったのか。私は、てっきり、戦争を知ることなく、「反戦平和」に流れる戦後の風潮を皮肉ったものであり、
徴兵年齢に戦時中、達していなかったであろう若者に向けた言葉だと、思っていた。

しかし、大岡が会社員だったところからフィリピンの戦地に送られたように、普通の人が、ある人は戦地に行き、ある人は
いかずに済んだ現実が、やはりあったのだろう。

そして、大岡自身が戦地で大人になった、という実感があったのではないのだろうか、と想像する。
戦争ぐらいで人間の本質は変わらない、といったことを『証言その時々』の中の随筆に書いていたけれども、
そんなことではないかな、と思う。


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by tamaikoakihiro | 2017-05-20 06:03 | 雑感 | Comments(0)
天皇陛下がベトナムを訪問している。ベトナムに残留した日本兵の家族に会ったということだ。たぶん、兵の階級だけでなく将校の階級でも家族を持った人がいただろうと思う。

10年前、残留した日本人のことを書かせてもらう機会があった。

もっと前、そうだ、10数年前、ベトナムに残留してその後、帰還した将校の一人にお目にかかって話を伺った。多摩の山の方にお住まいだった。確か、お宅を訪ねて行ったのだった。

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写真は中部クアンガイという町で撮影したもの。クアンガイに、日本人が指導するベトナムの陸軍士官学校がつくられたのだったと記憶する。そのことも伺った。


そのあと、ベトナムに移り住んだ。そして、ベトナム戦争終結後しばらくまで残留していた、元日本兵(といってもその当時は成人男子の義務だったから、兵隊というのは特殊な存在ではないのだが)の一人に話を何度か聞いた。結構な頻度でお宅を訪ねた記憶がある。

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日本でお目にかかった元将校の方は、まさしくベトナム独立同盟(ベトミン)の幹部を育てた人であった。要するに、現在のベトナムの軍隊の根幹に関わったといって差し支えないだろうと思う。

ベトナムでお目にかかった方は、朝鮮新義州にも一時期住んでいたことがあると語っていた。あるいはどこかで古山高麗雄とすれ違っていたかもしれないと、今になって思う。

残留したのは軍人だけではなかった。家族で残留した方にも話を聞く機会があった。その方(女性)の父上が、ベトミンの中枢から信頼されていたという話を伺った。

ベトナムのことに関心をもって10年以上が経ったな、と思う。

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写真は北部バクザン省のボハというところで撮影したもの。老女たちが集まっていたところで、拙いベトナム語でいろいろ訪ねた。その場所にはかつて、新ベトナム人とよばれた、残留日本人が住んでいたのだった。その日本人は、戦時中サイゴンにあった日本の専門学校、南洋学院の卒業生だった。仮にNさんとしておく。Nさんはすでに物故していたが、同級生だった方には何度も話を伺った。

それでボハに行きたくなった。「日本人がいましたよね?」としつこく問うと、「日本人じゃない、新ベトナム人だっ」と老人たちに言われたことが、記憶に強く残っている。あるサイトにそのときのことを詳しく書いたものを載せた。

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写真はボハの水田。泥の道をバイクタクシーのお兄さんに運んで貰った。ときどき橋で、通行料金というのか、お金を払っていたように思うけれども、あれは記憶違いだろうか。

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ボハの寺。ああ、もう二度と、訪ねられない場所を、数時間で去ったことを、今更悔いてしまう、なあ。

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by tamaikoakihiro | 2017-03-04 01:14 | 雑感 | Comments(0)
飯尾憲士の作品を読んでいる。本日読了したのは『開聞岳』(集英社)。
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特攻隊員の中にいた朝鮮出身者たちのことを追った作品である。執拗な、といった言葉が、その取材姿勢にはふさわしいようにも思えるけれども、とにかく『自決 森近衛師団長斬殺事件』(光人社)を読んで以来、気になっていた作家だから、読めてよかった。

飯尾憲士自身は、父親が朝鮮半島出身で日本に渡った人で、母親は日本人だったそうである。

そういう自分の血に偏執して、というと言葉が不適切かもしれないが、作品を書き続けた人の生涯を想像する。何に執念を向けることの必要もなく、生活するわが身ゆえのことなのだろうな、と思う。
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by tamaikoakihiro | 2016-10-07 05:15 | 雑感 | Comments(0)
カラーでみる太平洋戦争」(NHKスペシャル)のDVDを買って見ている。

当然だけれども、モノクロで見てきた戦争の映像や写真が、カラーで流れる。そうか、そんな色だったのかと、驚いたり、少年の頃に読んだ雑誌や本に載っていた図版の彩色を思い出したりする。

私が少年の頃は、たぶん、戦争経験者がまだ世に多く、考証もしやすかったのかもしれない。
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(写真は七ヶ宿で撮影したもの)

上記の番組は敗戦から70年目という節目にあわせてつくられたようだから、そうした人手による考証でない方法で、色をつけたのかなと想像する。

マレー作戦の映像に色を付けると、兵隊が首から戦友の骨を入れた箱を吊っているのが際立ってきたとのナレーションがあった。

なるほど、モノクロでは、白い布で包んださまが、目立たないのかもしれない。

カラーというのは、すごいなと思う。いまは何でもカラーだけれども、モノクロの時代が、やはりあったわけだ。

私は戦争の時代を、どうしてもモノクロのイメージに引きずられて見てしまうし、感じてしまう。

でも当時を知る人には、当然だけれども、カラーの記憶が残っているわけである。

私が話を伺った方々も、カラーの記憶を保持しているわけだ。戦時中のサイゴンの美しさを語ってくれた方、敗勢のビルマで学友との別れを語ってくれた方、戦犯裁判のこと、獄中のことを語ってくれた方。

話を聞くというのは、モノクロからカラーへ、そして動画へと、導いてもらうことでもあるのかな、と思った。

会津若松編成の歩兵第二九聯隊のことも、ガダルカナル島のことで取り上げられていた。同聯隊にいらした方に、十年ほど前、話を伺った。その方は、ガ島は経験していらっしゃらなかったようだけれども、ビルマから仏領印度支那に転じた頃のことを話して下さった。

仏印はツドモという街での経験を興味深く伺った。ツドモはいま、ホーチミン市の郊外として発展しているようだし、日本の不動産会社が何か開発をしていると、ニュースで読んだ記憶がある。

その街にあった飛行場から、日本軍の航空隊が飛び立ち、マレー沖海戦でイギリスの新鋭戦艦を沈めたという。

細部を知ると、カラーはもっと微細になっていくのだろうなと思った。
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by tamaikoakihiro | 2016-09-06 23:01 | 雑感 | Comments(0)
自分と意見の異なる人の話を聞き、丁寧にまとめていく作業というのは、途方もない労力を要するのだろうと想像する。

『日本会議の正体』(青木理・平凡社新書)を読んだ。

読んだけれども、読むと知らないことが多すぎて、自分が現在進行形のものに、苦手意識があるか、感じた、というのが正直なところなのである。

しかし現在進行形の事柄にも、必ず源流があることを、教えて貰った気がする(当然のことなのだろうけれども、本を読んで学ぶことはそういう当たり前のことの方が多いのかも知れない)

本の大きな筋とはあまり関係ないのだろうけれども、次のような表現に目がとまった。

「全国の大学のキャンパスは左派学生に席巻されており、右派学生の蠢動がはじまったとはいっても、それはごくほそぼそとしたものにすぎなかった」(p65)

これは「早稲田大学学生連盟」結成に関する記述の一部である。これは1966年のことであるようだ。

自分の母親は1946年生まれで、東京で大学生をやっていたので、昔、極左運動に興味があったころだったか、「学生運動の類いに関わったのか、それともノンポリだったのか」と尋ねたことがある。

ノンポリだったそうである。てっきり全学生がいわゆる左翼的な活動に邁進していたと思っていたから、拍子抜けした。

大学に、親が活動に熱心だったという友人がいた、どういうわけか私は恥ずかしい思いで「うちの親はノンポリだった」といったら、「あの時代、ノンポリでいたことの方が、意味があるでねえの」との返事だった。

なるほど。

その後、右派の学生がいたことも知った。反戦平和といえば、錦の御旗に近いと思うけれども、それを掲げる人たちと、違う立場で活動していた人たちもいたのだな、と思った。

さて、上記の一文に戻る。「蠢動」とあった。

手許の辞書をひくと、「(1)虫などのうごめくこと。」「(2)(取るに足らないものが)こそこそとうごめくこと。」とある。

うーん、かなりネガティブなイメージだなと思った。

とはいえ、著者が、自分とは異なる見解を持つ人々に取材し、その結果をまとめた本であるから、〝異物視〟する言葉が出てきても不思議はないな、と思うし、それでもいいのかなと思う。

以下、私の調べたりして、の経験から。

北部仏領印度支那を解体したあとの日本軍の記録(戦後)には、「ベトミンが蠢動」といった記述があったような記憶がある。ホー・チ・ミンが1945年頃から仕掛けていたゲリラ戦をとるに足らないと思っていたのだろう。

しかしながら、一方で手痛い目にも遭わされたようだ。そして今やベトナムの政権は、ホー・チ・ミンがつくったベトナム共産党によって担われている。

また話は戻って……

「蠢動」していただけだった人たち(右派学生)がやがて、「日本会議」という影響力を持つ組織へとつながっていく……そんな構図があるのだろう。

蠢動というのは、なにやら少し蔑視も感じる言葉だけれども、蠢動する方にしてみれば、そうするだけの理由があって、そうしているにちがいない、と思う。何を書いているのか、自分でよくわからなくなってきた……

ごく小さな動きの時期から関わっていた人たちのことを、もう少し知ってみたいな、と思った。あの時代に、少数派でい続けることは、戦前・戦中に反戦運動をやるよりは容易だったかもしれないけれど、大変なこともあったに違いないと思うからである。
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by tamaikoakihiro | 2016-08-26 11:50 | 雑感 | Comments(0)

JRの駅、西日本

用事があって、西日本に行ってきた。新幹線のある駅で在来線に乗り換えた。ホームの掲示を見ていると面白いものがあった。
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しばらく眺めていたら列車が来た。到着した駅の待合室の天井付近ではツバメが巣をつくっていた。
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海の近い街でしばらく過ごして、遠目に砂浜を見て、帰った。暑い一日で、車窓から見た在来線もつかれた感じだった。
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by tamaikoakihiro | 2016-07-11 23:15 | 雑感 | Comments(0)
「葬儀には、みんなが姿を見せた」――この一文で始まる大部のノンフィクション『輝ける嘘』(菊谷匡祐訳・集英社)を読んだのは10年以上前だけれども、もう参ってしまった記憶がある。

上下2冊を飽かず読み通した。ベトナム戦争のノンフィクションといえば、何となくハルバースタムのことを思い浮かべるけれども、いや、違うなあ、『輝ける嘘』だな、と思う。少なくとも自分にとっては大きな感銘を受けた作品であるな。
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by tamaikoakihiro | 2016-02-15 22:29 | 雑感 | Comments(0)
ベトナムに行く前、戦時中のサイゴンを知る方々に話を聞いて回った。テト(旧正月)の美しさを語ってくれる方がいた。花々に埋まって――といった表現をされていたと記憶する。
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2006年だから、10年前、ベトナムで二度目のテトを迎えた。花々が公園を埋めるように売り出され、買い求める人がいたり、企業などでは園芸の業者から良いものを鉢で借りていた、と思う。
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以前も書いたけれど、バリア・ブンタウ省に実家のある友人の実家にお邪魔した。胡椒農園を持つ御宅で、「電気が来たのは僕が高校生のときだよ」と友人は言っていた。2006年時点で、友人は、たしか28歳だったと思う。
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日本語に堪能な、本当に聡明な友人で、いろいろと教えてもらったけれども、あのときのテトは忘れがたいなあ。最近は無音に過ぎている。近々ベトナムに、行けたらなあと思う。
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あの頃は、会社勤めで疲弊した時期もあったものの、ベトナムの友人たち(といっても二人)のありがたい支えというか、大げさに言うと二人の生き方というか雰囲気というか。そういうものに助けられたのだった。

10年たって、感傷的になる。
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by tamaikoakihiro | 2016-02-07 05:46 | 雑感 | Comments(0)

紙幣

1000ドン札が、出てきた。小銭である。
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ベトナムにいた頃、何に使っていたかなと思う。コーヒー代が道ばたで飲むと5000ドンくらいだったような記憶があるから、そういうときに使っていたのかもしれない。2000ドン札というのもあった気がする。

日常的に使っていたはずなのに、具体的にはあまり思い出せない。

それよりも、ベンチェーという、メコンデルタの入り口のような街のバスターミナルの公衆便所で、使用料を払うのに、500ドン札を出したら、「これでは少なすぎる」と番をしている少女に指摘された場面を思い出す。

日差しの強い日で、泊まった古いホテルで「昔ここでベンチェー蜂起というのがあったんですよね?」と生半可な知識をベトナム語で披露したら、何十倍ものベトナム語で説明されて狼狽したのだった。
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by tamaikoakihiro | 2016-01-03 17:34 | 雑感 | Comments(0)
ホーチミン市3区に住んでいた頃(といっても1年半くらいだったか)、勤めを終えて帰宅して食事をとって、それから散歩に出ることが、たまにあった。
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市中心部から郊外へ続く通りまですぐで、そこに出ると、夜風にあたるべくバイクを流す人たちがいて、賑やかに営業する鶏肉のうまい店があったり、新参のドラッグストアがあったり、何となく、良い感じだった。

夜だけれども、都会らしいというべきなのか、小さな子供たちの姿も見た気がする。

ときどき、路上で販売している肉まんを買った。売り手はデッキチェアというのか、仰向けになれるくらいの椅子に体を横たえていて、呼びかけるとのそのそと準備してくれるのだった。
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「こんな時間に……」とは思わなかったのは、一つには私が人の親になっていなかったからだろうと思う。

人の親といえば、ベトナムに移り住む直前、父親が末期癌を宣告されて、入院した。埼玉のだいぶ奥の方の、ある医科大学の付属病院だった。プロ野球チームのある町の家からだと、往復四時間くらいかかった気がする。毎日見舞った。

これは何にも自慢にならない。毎日行けたのは、無職だったからである。そして「ベトナムに行ったら働く」と言う私を、父親はどれだけ頼りなく見ていたかは、今となってはわからない。

移住して二週間ほどで、亡くなったとの連絡をもらった。

「親の死に目に会えない」という使い古された言葉があるけれども、そういう次第なのだったな。

10年前のことだから、忘れたことも多いけれども、見舞いのために乗ったローカル線の車窓に映った風景とか、病院の寒々とした雰囲気とか、ごく一瞬の細部は、記憶からなかなか消えないものだなと思う。
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by tamaikoakihiro | 2015-11-04 22:14 | 雑感 | Comments(0)