大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro

カテゴリ:東亜経済調査局附属研究所( 83 )

3月に入ると、毎年思い出すことがある。

「明号作戦」である。正確には私自身が経験したわけではないから、「想像する」といった方がいいのだろう。

1945年3月9日、仏領インドシナにあった日本軍は、フランスの植民地政府を解体した。これにより現在のベトナム、カンボジア、ラオスの3国が、形式上のことかもしれないが、独立した。

この一連の軍事行動を「明号作戦」という。これは日本軍が使った秘匿号である。

当時の現地軍司令官の回想では、準備段階では「マ号作戦」などと呼ばれていたようだ。

話が脇道に逸れた。なぜ私がこの作戦を想像するのか。

それは一兵士として、ベトナム人の協働を促す特殊工作隊のメンバーとして、または一学生として、現地にいた人の話をじかに聞いたり、読んだりしているからだろう。

「それまで安南人(ベトナム人の植民地時代の旧称)はフランスに支配されていた。それを一晩の作戦で覆してしまった。安南人はわーっとなりましたよね」

戦後はベトナムに残留し、数奇な運命を刻んだ、ある老人は、かつて私にそう話してくれた。

「親日勢力をもとに傀儡の独立国をつくっただけではないか」

先述のように、そんな見方はもちろんある。それは否定できないものだろう。

しかし既存の支配体制を明白に破壊した点で、一つの歴史の転換点だったのだろうとも思う。

そして夜半、息を潜めてフランス植民地軍の兵営近くにあったという、ある人の回顧談を思い出す。

生きるか死ぬか、青春のただなかで経験したことを、その人は、じつにわかりやすく、戦後生まれの私に話してくれた。それがありがたかった。

私は経験していないのだから。

そういえば芥川賞作家の古山高麗雄は「今夜、死ぬ」という短編で、カンボジア・プノンペンで明号作戦に参加した折のことを書いている。やはり若くして死に直面するときの気持ちを、テンポの良い語りで表現している。

奇しくも日本軍が軍事行動を起こしたのと同じ頃(3月10日未明)、東京は下町を中心に米軍の大規模無差別爆撃にさらされた。

そんなこともまた、思う。
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by tamaikoakihiro | 2010-03-26 22:26 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)
シンガポールにはチャンギー国際空港という空港がある。アジア圏のハブ空港として有名である。

その近くに「チャンギー刑務所」というものがかつてあって(いや、今もあるのかもしれない)、昔、日本人が、戦犯をはじめとして各種の罪に、連合軍によって問われたり、彼等の調査の対象になったりしてそこに収監されていた。

そこに東亜経済調査局附属研究所の卒業生も含まれていた。

内地では大川周明がA級戦犯として訴追されたこともあり、その弟子と呼ぶべき若者たちの調査をしなければ、連合軍は気が済まなかったようだ。

その当時のことを、卒業生に聞いたことがある。

「がたーん」

と音がするそうである。

絞首台の板が外れて人が下に落ちた瞬間の音だという。

その人は独房にいて音を聞いていた。ただそこで成仏を祈るだけだったという。

よく勘違いされ、BC級戦犯は、A級戦犯より罪が軽い、と思われているようだ。

しかしそんなことはもちろんない。BC級の方が、粗雑な復讐裁判によって根拠もなく処刑されたケースが多いというのが、戦犯裁判を語る上で常識にあたる。

そのシンガポールでの犠牲者を悼む集いが、今も東京で行われている。場所は池上本願寺である。

毎年四月、当時チャンギー刑務所で犠牲になった人たちの遺族、関係者が参加する。

戦犯の教誨師を務めた田中師はここの僧侶である。

私は先年、参加する機会を得た。田中師も病身にもかかわらず、車椅子で参加されていた。

戦後65年、今も慰霊は続く。
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by tamaikoakihiro | 2010-03-22 17:11 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

品川区上大崎のこと

東京都品川区上大崎

目黒駅から歩いて数分のところである。

今は服飾関係で有名な杉野学園の校舎が並ぶ
通りである。近くには雅叙園がある。

昔このあたりにさる教育機関があった。

その名を満鉄東亜経済調査局附属研究所という。
所長はかの有名な大川周明

なんだ右翼じゃないか、と思う人がいれば、
まだいい方なのかもしれない。

それって誰? と言われても戦後65年、おかしくはない。

しかしこの長い名称の教育機関を、そのままそう呼ぶ人は
ほとんどいなかった。

実際にそこで学び、戦前・戦中、タイ、ビルマ、フランス領印度支那に
派遣された人たちに聞くとこんな答えが返ってくる。

「寮と呼んでいました」
「研究所、でしたかね」

いま、その人たちでご壮健の方々に会い
いろいろと教えを乞うている。

「東亜」という言葉が、自然と出てくる会話になる。

戦後、アジアは近くなったのかどうか。
かつての青年たちほど、真摯にアジアを考えたことの
ない人の方が、私を含め、多いのではないだろうか。

ふとそんなことを思ったりする。
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by tamaikoakihiro | 2009-12-23 11:00 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)