大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro

カテゴリ:東亜経済調査局附属研究所( 82 )

カンボジア独立運動

カンボジア独立運動の闘士の一人に、ソン・ゴク・タンという人がいた。彼は戦時中、日本に亡命してフランスの弾圧を逃れた経験の持ち主である。その脱出に一役買ったのが、大川塾生だった。

関与した方の手記を読んでいると、ソン・ゴク・タンの風貌について言及している。ヒゲはそっていたが、一本だけ、長く数センチにも伸びていたという。

ベトナムでも、こういう人を、私はよく見た。何か縁起担ぎのようなものだ、とベトナム人の友人に教わった記憶もある。

ひょっとすると、東南アジア、いや大陸の男性の文化の一つなのだろうか。
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by tamaikoakihiro | 2011-02-04 08:08 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)
引っ越しをすることになって荷物を整理していると、思わぬところから「こんな資料、すでに入手していたのか!」と感じるものがたくさん出てくる。満州国治安部の官吏から転じて戦前からバンコクで工作活動にあたっていた五嶋徳二郎のことを書いた資料が出てきたのはありがたい。

五嶋のことは、まだよく理解していない。ただ大川塾二期生のある方が、戦後に五嶋の娘と結婚しており、戦前・戦中と戦後をつなぐ線のようなものを、勝手に想像している。

五嶋の名前は、さる著名なノンフィクション作家の著作の中にも出てきたことを記憶しており、これから少し、また調べてみようと思っている。
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by tamaikoakihiro | 2011-01-31 08:15 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

「偉大な師に出会って」

大川周明の弟子たちは、彼との出会いで人生が変わったのだろう。田舎から大東京に出てきて、そこからまたアジアに派遣された。東亜経済調査局付属研究所(大川塾)の人たちのことである。

ある方は「偉大な師に出会って僕の人生は変わったね。ことによったら田舎で百姓をしていたかもしれない。でも人生、お金だけじゃないんだよね」と仰った。

その方は長男で、家を継げばよかったのだ。それがどうしたことか、大川塾に入り、戦争中はシンガポール、ビルマと歩いた。

インド独立の闘将、チャンドラ・ボースの護衛を務めたこともある。

そういう世界への広がり、歴史的瞬間への接触が、東京の品川区上大崎の地での教育から生まれていた。
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by tamaikoakihiro | 2011-01-27 23:03 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

反骨の人

戦時中、ビルマで青年運動に関わった東亜経済調査局附属研究所(大川塾)二期生の方の手記を読んでいる。お話を伺った折には聞き出せなかった細部まで記されており、自分の取材力のなさに少なからず情けない思いをする。

一方で、文字にして残してくださっている方々のありがたさを、私のためにというわけではないのだが、感じる。

件の大川塾生は、直情径行型とでもいうのだろうか、タイで領事館に勤務していたときは、上司が大川周明をけなすような発言をしたと聞けば、憤然として談判し、領事館勤務を放棄してしまったのである。

またビルマでは同志のビルマ人に共産主義活動で嫌疑をかけてきた憲兵隊に、堂々と「逮捕状を持っているのか」とすごんでみせ、追い返している。

とにかく「アジア解放」という師の考えが頭にこびりついていたのだという。

そういう話を聞いて、私はまた自分にとってのアジアとは、と思う。

結論は出ないのだけれども。
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by tamaikoakihiro | 2011-01-26 07:57 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

名前を残して

戦史資料室で閲覧したビルマ独立義勇軍(BIA)の基礎資料、「南機関外史」をデータ複写で先日受領。そこに並ぶ大川塾生の名前、名前。民間のある組織から、あれだけまとまった人数が参加したのは、BIAの中でも異色なのではと思う。

だからこそBIA参加の軍人(尉官・左官クラス)の戦後の回想記に、大川塾の名前が出てくるのだろうと想像する。その回想記とは、『ビルマ工作と謀略将校』(山本政義)である。

「南機関外史」では、大川塾生に下された命令も読むことができ、その行動も克明に記されており、興奮する。

タイとビルマ国境の密林、山岳道を踏んでいく大川塾生の姿を想像する。

彼らの見る先にはビルマがあり、独立ビルマの未来があったわけだ。

以前、ブログで書いたように、なぜか『ビルマ工作と謀略将校』では、大川塾は「大東亜塾」となっている。

考えてみれば、大川塾は大東亜の解放を志向した教育機関であり、そうなれば別称として当時、流通していたとしてもおかしくない。

とはいえだいたいにおいて、現地では大川周明博士の弟子、と認識され、東亜経済調査局附属研究所の名前で呼ばれることはなく、「大川塾」の通称で通っていたわけだが。
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by tamaikoakihiro | 2011-01-25 08:07 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

南進論者

海軍こそ南進に積極的だったという話を、最近ようやく理解し始めた。その南進を強く主張する海軍の軍人に中堂観恵という人がいた。タイで武官を務めたような人である。

この人について、少し調べてみると、有益な情報があることがわかった。

何しろ大南公司の松下光廣と懇意だった人物である。何かがわかれば面白い。
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by tamaikoakihiro | 2011-01-06 23:59 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

大晦日に戦争の話

ビルマ独立義勇軍(BIA)結成式は1941年12月31日に、バンコク市内の旧中華総商会庁舎で行われた。今から69年前のことだ。

日本は開戦劈頭のマレー作戦の成功から、当初、本格的な軍事作戦を考えていなかったビルマに進撃することになった。

そこで、それまでは国内擾乱のための謀略工作のためにあった南機関(機関長鈴木敬司大佐)を司令官とするビルマ独立義勇軍(BIA)が設立された。

BIAの複雑なところは、鈴木大佐がビルマ独立を至上の目標としつつ、その所属は第十五軍(司令官飯田祥二郎中将)だったことだろう。

独立のための戦争と、日本軍の作戦は目的がまったく違う。

前者のそれはイギリスの勢力を追い払うことにある。

後者のそれは重慶の国民党政権へ物資を送るための援蒋ビルマルートの遮断にある。

こういう本来は相容れないような二者が、ある時期、行動をともにすることが、大東亜戦争の間、いくつかあったようだ。

東亜経済調査局附属研究所(大川塾)の卒業生が参加したインド国民軍(INA)や安機関(ベトナム独立運動と共闘する日本軍の特務機関)などはその例の渦中にあった。
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by tamaikoakihiro | 2010-12-30 22:29 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)
ビルマのことを調べたり、人の発言を読んだりしているとときどき「親日」という言葉が出てくる。しかし「親~」というのは、なかなか判じにくいもののような気がする。

ビルマには開戦直後、ビルマ独立義勇軍(BIA)が入り、独立気運を高め、日本軍の進出を支援する役割を担ったという。

そういったところの記述の前後に「親日」が出てきたりする。しかしBIAに参加していたアウン・サン(アウン・サン・スーチーの父)は戦争中、日本に反旗を翻すわけである。

一方で戦後も日本に親しみを持ち続けたBIA関係者もいるし、戦後賠償の局面で日本政府関係者と彼らの間に立って活躍した大川塾生がいるのも事実である。
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by tamaikoakihiro | 2010-12-09 07:50 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

69年目の開戦

今日は大東亜戦争開戦の日。未明までかかってある方に読んでもらうための草稿2章を仕上げていた。終わる頃、ちょうど自分の書いている事柄の時間帯とほぼ重なっていることに気づく。マレー半島に殺到する部隊の先遣隊にいた大川塾生がいる。上陸を迎え入れる町にいた者もいる。

南方作戦開始の朝、マレー半島東岸は、前夜の雨風が収まり、月に明るく照らされていたという。波の音に自らの足音を忍ばせようとしていた若者の姿を思い浮かべる。あるいはにわかに殺気立つ現地公館の慌ただしさを。

大川塾とは東亜経済調査局附属研究所のことである。大川周明が率いた。その教え子たちは、「10年は命令のままに働くもの」という師の意図にたがわず、国の大きな転換点で働いた。

その活動は必ずしも年表の上で目立つものではないが、彼らの働きなくしてマレー作戦の成功はおぼつかなかったと思う。

そんな想像などを、未明にしていた。

この日に草稿2章が仕上がったのも、何かの巡り合わせなのだと感じる。古山高麗雄流にいえば「運」というやつだろうか……
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by tamaikoakihiro | 2010-12-08 08:15 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

初代寮長の回想

東亜経済調査局附属研究所、通称大川塾の初代寮長は、かの有名な五・一五事件参加者だった。山岸宏という人である。

この人が戦後、大川塾のOB会報に次のように書いている。

「私が寮長をしていた頃の研究所は、前に述べたように満鉄・外務省・陸軍省の三者分担による月額合計十五万円の経費で運営されていたが、その当時の金で十五万円といえば、今から考えると相当ぜいたくな資金額で、研究所は実に恵まれた環境にあったと思う」

彼は金を受け取りに陸軍省軍務課長だった岩畔豪雄中佐のもとに出向くなどしている。

岩畔豪雄といえば、開戦前の対米交渉や中野学校創設いったところで知られるが、彼と大川塾の接点もまた興味深い。
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by tamaikoakihiro | 2010-09-29 00:00 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)