大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro

カテゴリ:東亜経済調査局附属研究所( 82 )

開戦から70年

海が荒れていたと、資料にはある。70年前のマレー半島東岸、日本軍が殺到したシンゴラの町のことだ。町の日本領事館には大川塾生が二人、いた。開戦前のさまざまな動きに、彼らを含め、多くの大川塾生が関わっていた。

バンコクにいた大川塾生はすき焼きパーティに集められたと聞いている。開戦の企図を悟られないようにする一種の偽装に付き合わされたようだ。

戦争は、真珠湾攻撃をもって始まったと語られることが多いようだけれども、日本時間でいえば、マレー作戦の方が先に始まっていた。

荒れた南方の海、深夜、領事館からの呼び出しに走り出す若者……

いろいろと想像が働く。

さて、雑誌「東京人」の特集「軍都東京の昭和」を読んで寝よう。
[PR]
by tamaikoakihiro | 2011-12-07 21:54 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

酒田

水戸に行った翌週、山形県酒田市に行ってきた。光丘(こうきゅう)文庫というところを訪ね、大川周明の蔵書を見てきた。ずっと探していた東亜経済調査局附属研究所(大川塾)の戦後の会報誌のある時期のものを閲覧できた。

文庫の近くには神社があり、その中に大川周明を顕彰する碑があった。大川塾の会報誌で見慣れたものだった。三年前、訪問したときにはそこを訪れるような余裕を持たなかった。

近くには映画『おくりびと』の葬儀社の事務所という設定だった建物があった。石原莞爾の署名のある、彼の戦友を称えた碑もあった。

最上川の向こうに見える日本海は、晴天のもと、美しかった。手紙で何度かやりとりさせてもらっている大川塾生の方にもご挨拶できた。来年90歳。後日、外交資料館で見つけた二十歳前の頃の旅券申請書の写しをお送りしたら、たいそう喜ばれた。

初期の大川塾生は外務省の公用旅券で外地に出た。後期の人たちは、軍用機で旅券なしで出た。

そんなことを、また、帰ってきてからいろいろ考え、また記すなどしていたら、そうか、もう12月か。開戦から70年か。
[PR]
by tamaikoakihiro | 2011-11-30 21:42 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

中津河畔

大川周明終焉の地を訪ねた。小田急線本厚木駅からバスに乗って約30分。局前という素っ気ないバス停で降りて歩くこと5分くらいか。中津川への視界を遮る雑木林を前にした道路に面して立派な門がある。道路は昔、中津往還といったらしい。

この場所から、大川周明は東京裁判の市ヶ谷に向かった。

熊坂半兵衛という土地の有力者が100年ほど前に立てた立派な家だった。案内を乞うたところ、受付をしている隣家の女性が親切にいろいろと教えてくれた。

関東大震災もこの前の震災にも少しの動揺もなかったらしい。建具は建てられたときと同じものだという。

大川塾生が戦後、中津のお宅、と呼んで結婚相手や子供と連れだって訪れたところである。縁側で弟子たちと写真に収まる大川周明の姿を何かの資料で見たが、その縁側はこれだろうと見当をつけて写真を撮影した。

私以外、訪問者はいなかったが、あれこれ想像すると、寂しい感じはなかった。蝉の音がやかましく、66年前の夏もこうであっただろうと思った。

やがて彼が亡くなったとき、大川塾生の代表が弔辞を読んだのだけれども、そのなかに「中津河畔閑寂の地」とあったが、そんな静けさが、恐らく彼の亡くなった冬の季節には、十分に感じられるところだったのだろう。

あれこれ感じたり見つけたりしたことがあったなあ。

速やかにあっちにまとめよう。
[PR]
by tamaikoakihiro | 2011-08-22 21:57 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

崖を見上げる

通勤の途中、目黒駅を出た山手線から品川に向かって右の方を見ると、崖が目に入る。その崖っぷちに白い建物がある。杉野学園の建物なのだが、そこにかつて東亜経済調査局附属研究所(大川塾)があって……と考え出すと、座れない苦痛もだいぶ和らぐ。

大川周明は東京が空襲を受けた後、上海から帰国し、山手線から見た学舎を見て安心したと、どこかの資料で読んだ。

私はそこにない建物を、今ある建物を見て想像するわけだ。

ベトナムに住んでいたとき、借りていた部屋のある3区から市中心部に出て行く際、しばしば裁判所の前を通った。フランス領時代の建物がそのままで、かつても今も裁判所なのだった。

通るたび、そこで戦犯裁判の刑を宣告された古山高麗雄のことを想像した。さらに市の中心部に行くと、探偵局のことを思った。

カチナ通り(ドンコイ通り)には、かつて探偵局(シュルテ・特高のようなものか)があったと古山は書いていて、それと思しきものを探すと、現在のベトナムの警察、公安の大きな建物が、それもフランス領時代を思わせる姿であるのだった。

今ないものを今あるものから想像したり、今あるものから昔を想像したり、まあ終わりのない話ではある。さてさて、しかしやることはたくさんある。
[PR]
by tamaikoakihiro | 2011-08-09 22:34 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

勇戦奮闘

『ビルマ建設戦』という古い本がある。大東亜戦争中に出された本で、「大東亜戦争 陸軍報道班員手記」と副題がある。その中の一章に「ビルマ独立義勇軍」との題で記されたものがある。

ビルマ独立義勇軍、つまりはBIAである。その章から一節を引く。

「皇軍のビルマへ進攻と共に祖国に入った彼等は、各地で同志を糾合し次第にその数を増しながら、皇軍の作戦に積極的な協力振りを示した」

とにかく皇軍が主であり、協力される側であったのだ。

こういう筆致に、そして無論筆者に悪意はなかったのだろうけれども、尊大な印象は、70年後の今、免れない。

先日ある研究所の所内資料のなかでビルマ独立義勇軍幹部の日本人に対するインタビューを読んだが、末尾でビルマ独立に何か貢献したかといったような問いかけを受けて、「とても恥ずかしくてそんなことはいえない」といった主旨の答えを、その元幹部はしていた。

ビルマ独立を日本が阻害した面もまた、あったからだ。

「恥ずかしくて」は、30年ほど前のインタビューで出た言葉で、この人物は、それでも戦後、ビルマの人々と湯人として付き合い、仕事をしてきたことを述べていた。

友人という言葉に、私は大川周明の「一人の友をつくれ」という、大川塾生に贈った言葉を思い出した。
[PR]
by tamaikoakihiro | 2011-07-31 20:31 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

沖縄

6月23日は、沖縄戦の終結の日だった。それを聞いて、長勇という軍人のことを思い出した。思い出したといっても知人でもないから、表現は正確ではないけれども。

長勇大佐は、沖縄戦で最後、自決した。

長勇大佐(のちに少将)の関係する特務機関にいた大川塾生がいた。その方にはお目にかかったことがある。その方が仏印にあって、慰霊の催しに参加したと、手記に記していた。長は仏印にも縁があるのだった。

そして長勇大佐は、大川周明と懇意なのだった。彼を追悼する文章を、大川はものし、戦後長の郷里で読み上げているくらいなのだ。何しろ若き日、クーデターをともに計画したくらいなのだから、懇意というか、刎頚の友というか、そういった間柄だったのかもしれない。

沖縄の戦闘の苛烈さや犠牲の大きさは、伝えられているだろうけれども、沖縄から大川塾、そして仏印に想像が及んだ。
[PR]
by tamaikoakihiro | 2011-06-25 16:55 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

公園と戦争

少し前の発売になるが、「東京人」(都市出版)6月号で、「軍と戦争を記憶する公園」と題した小文を書く機会を頂戴した。

この号の全体は「歴史で歩く東京の公園」ということで、その中で「昭和史、とりわけ敗戦までの間のことを語れる公園について」といったご依頼なのだった。

昨年の東亜経済調査局附属研究所(大川塾)に関する短期連載のときと同じ編集の方に、お世話になった。

半端な文章になってしまったのではないかと、ちょっと今でも冷や汗をかいている(つもり)。

編集の方には、だいぶ前、「革命の都、東京というのはどうでしょうか」とお話ししたことがあって、それは孫文、周恩来、ベトナムのファン・ボイ・チャウ、クォン・デなどなど、革命志向の人たちが曲折を経て、住んでいたことを、何か文章にできたらなあと思ってお伝えしたのだった。

そのあたりのことを、覚えて下さっていたようだ。

知っている公園がほとんどだったが、加賀乙彦の『小暗い森』を再読できたのはよかった。

存命の高名な作家だが、この人の作品を高校時代に(授業中)読んで、いたく感動し、文筆の途を志したのだといっては、大げさなのだけれども、まあそんなことをぼんやり思ったのだった。

いや、また単純な18歳だったものだ。

歩いてみて、資料を読んでみて思ったのは、東京の公園は、「慰霊の場」なのだなあということ。

慰霊のために、と訪れられる場所ではないのだろうが、期せずしてそうなっている――そんな風に感じた。

詳しいことは、読んでもらえればわかるのですが……

a0153209_2112868.jpg

[PR]
by tamaikoakihiro | 2011-05-30 21:10 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

史料閲覧室

防衛省防衛研究所内の史料閲覧室に行ってきた。何度目だろうか。大東亜戦争終結までの陸海軍の史料があるところだ。

閲覧している人たちは、何というか、本当にプロ!といった感じの人ばかりで、いつも気後れする。

相談係の方に、陸軍省軍務局兵務課の機密費の使途に関する記録の探し方を尋ねた。

結局目当てのものは見つけられなかったけれども、係の方が、私には見つけられない基礎的な史料を出して下さった。非常に面白い。

収穫は、電信器材の開戦前の状況がわかったこと。大川塾生の働きとの関係も、何となくだが見えた。

いつ行っても緊張するし、かなり楽しいところだ。
[PR]
by tamaikoakihiro | 2011-05-28 05:51 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

藤原岩市とある会社

東亜経済調査局附属研究所(大川塾)の卒業生の方から拝借したある手書き資料の中に、インド工作のF機関を率いた藤原岩一少佐の戦後の動向が記されていた。

それによると、仏印にあった商社、大南公司――ベトナム独立運動で名を馳せた――の絡みで、藤原はある会社に勤務していた。陸上自衛隊に入る前のことである。

陸上自衛隊に入ったのちも、会社の状況を確かめに、制服で有楽町のオフィスまでジープに乗って来ていたという。

戦後と戦前・戦中のつながりを示す興味深い資料だった。
[PR]
by tamaikoakihiro | 2011-05-24 08:56 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

昭和通商のことなど

昭和通商のことは、『阿片王』などに興味深く書かれているが、自分で「元昭和通商社員」に会うとは、数年前まで考えもしなかった。大川塾(東亜経済調査局附属研究所)二期生の方が、元社員だった。

その方には資料の閲覧などでいろいろとお世話になっていて、たぶん書斎には私がまだ見たことのない貴重な資料がたくさんあるのだろうけれども、昭和通商時代のお話は興味深いものだった。

マレー半島での鉱山開発、旧式の飛行機の売買……いちばん気になったのは、五島徳二郎のことだろうか。昭和通商社員が書いた『阿片と大砲』には彼のことがやや詳しく書かれているが、全貌までまだつかめていない。

戦後、彼と義兄弟の関係になった大川塾生(上記の方とは別の方)によると、事務所にはいわゆるやくざや外国政府の要人が出入りしたそうである。

何とも興味の尽きないところだ。
[PR]
by tamaikoakihiro | 2011-05-06 08:15 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)