大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro

カテゴリ:東亜経済調査局附属研究所( 83 )

大東亜戦争開戦の日が、今年も過ぎた。七六年前、国運を賭して、としばしばいわれる戦争が、始まった。

毎年思うことは、南方に渡っていた大川周明の弟子の人たちのことである。

何人かに往時のことを教えてもらった。バンコクにいた人、サイゴンにいた人……

貴重な写真を見せてもらった。すべて忘れえぬことだと思う。会津出身のある方は、話を決して誇大にすることなく、淡々とサイゴンで迎えた戦争のことを話してくださったのだ。

私は、いま私がこのように安逸に暮らす所以のひとつであるに違いない大戦争のことを、体験せずして、体験したわけだ。

バンコクから、オンサン将軍(アウンサンスーチーの父)らが参加したビルマ独立義勇軍に加わった人もいた。大尉にいきなり任ぜられて、将校は帯剣が必要だからということか、慌てて街中で刀を買い求めたと回顧した方がいた。
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(写真は、サイゴン中心から少し離れた華僑の町。2005年撮影)

謀略企業のように語られることの多い、昭和通商に入ってシンガポールを目指した方がいた。

寒い寒い日に、暑い南方の若者のことを、思った。他人を想像する、とは古山高麗雄がしばしば語ったことだけれども、そういうことは、口にするのは簡単で、だが容易ではない。

思っても、書かなければ意味がないからである。
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(写真は古山高麗雄の父の郷里、七ヶ宿町)

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by tamaikoakihiro | 2017-12-09 20:14 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)
72年前の3月9日、フランス領インドシナで日本軍が行動を起こして、フランス植民地政府を打倒した。2005年の3月9日を、ベトナムのニンビンで迎えたことを思い出す。

ゲストハウスというか、あれはNHA NGHIというのが正確なのか、とにかく宿で、ものを思ったことを、覚えている。
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あの軍事行動のことは、三九事変ともいうし、軍の作戦名では明号作戦というし、別の言い方では仏印武力処理というのである。

私は古山高麗雄が、プノンペンで明号作戦に参加したことを、彼の著書から知った。ニンビンにいるときに、それでプノンペンのことを思ったな。

その後、大川周明の弟子の方々のことを知るに至り、この前、天皇陛下、皇后陛下が訪れたフエで三九事変に参加した、大川周明の弟子の一人の方の行動にも興味を持った。

その方は、フエの王城に乗り込んだということなのである。そして、かりそめの独立にわくフエの町にあって、独立運動の闘士である老人に会い、その老人が「血を流さなければ本当の独立はない」と語るのを聞いたというのである。
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もうこういう歴史に際会した日本人の数は寥寥たるものだろうと思う。

しかし、直接に話を聞かせてもらったから、私にとってはどうしても忘れられない事実だなあ。
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by tamaikoakihiro | 2017-03-09 22:49 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)
75年前、バンコクで大使館主催ですき焼きの会に参加していたという、当時、若者だった方から伺った話を思い出す。開戦前の、ある種の工作だったのだろうか。東亜経済調査局附属研究所、通称大川塾に学び、開戦の年にタイに派遣された卒業生の方だった。

毎年、このことは思い出し、ここに書いている気がする。自分にとって大事なことだからやはり書いてしまう。

タイに、日本軍は無血進駐したということになっているようだけれども、実に、その頃のバンコクは緊張感に満ちていたらしい。

マレー半島の町に上陸する日本軍とともにあった大川塾生の手記を読むと、タイ側との激しい交戦があったことがわかる。上陸される町の領事館にいた大川塾生の手記も興味深いものがあった。

そのあたりのことは、『大川周明 アジア独立の夢』(平凡社新書)に書いたけれども、思い返しても、バンコクの夜、日本軍進駐となるや、大川塾生がいかなる働きをしたのか、興味深いことだと思う。

今年も12月8日が近づいて来たな、と思う。

アメリカと戦争をしたと知らない世代もあるそうだけれども、私にとっては、75年前のことを、語ってくださった方々のことを思うと、昨日のことのように、何かが想像される。自分の経験には、絶対にならないにもかかわらず。

すき焼きの会のことを話して下さった方は鬼籍に入られた。大川塾のことを知りたいと思った私に、さまざまな助けの手を差し伸べて下さった方だった。本ができたあと、インド独立運動の英雄、チャンドラ・ボースにまつわる集いの席でお目にかかった。

そのとき、「よくまとめましたね」と優しく言って下さった。思い出すと、涙が出そうに、なる。
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by tamaikoakihiro | 2016-12-07 22:17 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

「偉大な師」

本厚木からバスに乗って旧大川周明邸を訪ねたのはもう3年前のことになる。暑い盛りで、バス通りから路地を入って行くと、川の音が気持ちよく聞こえた。

他に訪問者はいなかった。

そこは大川周明が没した地でもある。そして昨日、12月24日は大川周明の命日なのであった。

大川周明の弟子たち(大川塾生)は青山斎場での葬儀ののち、冊子を編んでいる。関係者の名前と連絡先が記載されている。高級軍人、外交関係者など、名前を見るだけで、交際の広さがわかるものだった。閲覧させてもらったときは、体が熱くなる感じがあった。

葬儀後の、集合写真とともに「これは●●さんでしょ――」と大将級の人物の名前を聞いた。そういう人々を近くに、教えを受けた大川塾生の識見というのは、いまの大学生以上のものでなかったかと想像している。

「偉大な師」と大川のことを呼んだ大川塾生もいた。

朔風とは北風のことだけれども、この時期にも一度、訪れてみたいと思う。
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by tamaikoakihiro | 2014-12-25 07:25 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)
先日、喪中欠礼の葉書をある方から頂いた。大川塾生のご子息からだった。その方の御尊父、つまり大川塾生の方には何度も自宅に伺い、お話を聞き、何度か昼食もご一緒したから悲しい思いを持った。

初めてお目にかかったのは2007年の8月。ベトナムから一時帰国した折だった。初めての私に気さくに話して下さった。構えることなく、電話をかけることができ、また手紙を差し上げると必ずすぐ、お返事を下さるのであった。
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(大川塾があった場所の現在の写真)

もうお目にかかれないと思うと、7年の時間が恨めしくなる。

そうだ、2007年から本格的に大川塾の卒業生の方々に話を伺うようになって、1941年12月8日、マレー作戦が始まる直前の南方の様子を知るようになった。

20歳そこそこの若者の行動と、国運を賭した大戦争の始まりが絡まりあっていることに、驚嘆した。

いま、20歳の若者が、国運と自分の行動が重なることに、実感を持つ機会があるだろうか。

多分、戦争というのは、多くの人の運命を否応なしに変える。それは老若を問わないのだろうなあ、と思う。
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by tamaikoakihiro | 2014-12-08 21:50 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

碑前祭

一昨日、夜行バスに乗って酒田に行ってきた。前回の訪問は2012年11月だからほぼ2年前だ。

酒田の港の近くが夜行バスの終点なのであった。高校生の剣道の大会があるとかで、ジャージ姿の運動部の生徒がたくさんいた。朝食をとろうと思った食堂にも大挙していた。

私は坊主頭にジャケット、ネクタイだったから、他校の運動部の関係者と思われたのか、屈強そうな10代の少年たちから「おはようございます」と低い声で挨拶されたのには閉口した。恫喝されたような気分になった。

9時半過ぎ、光丘文庫に行って、大川塾二期生(元外務省)の遺族が寄贈した資料を閲覧した。目黒の寮でつくられていた寮誌のオリジナルである。感銘を受けながらページをめくる。取材した折、見せた貰った号を見つけて、当時を思い出す。

もう六年前のことだなあ。

11時少し前、光丘文庫近くの大川周明顕彰碑の前に赴いた。「碑前祭」で、誘いを頂いていたのである。初めての参席。

日本最大の通信社、それから発行部数日本最大の新聞社の記者の方々も取材ということで、来ていた。

碑前祭が終わると市街にタクシーで移動して直会。「何か話を」と言われ、話してみるもしどろもどろ。どうしようもない。すぐに切り上げる。

少し前に勤めていた会社の親会社の記者の方から、挨拶され「本を読みました」と言われる。嬉しい、ただ少し変な気持ちになる。もと親会社の方からそんな風にいわれると……という恐縮する感覚がある。

ま、それはこちらの考えすぎなのだが。

その方から、東京在住の五期生の方が亡くなったことを伺う。数カ月前、手術をされて静養中であることを手紙で知らせて下さっていたから、驚き、言葉を失う。

二期生の方に、往時のことを伺う。日記の重要性を教えてもらい、大変興味を覚える。大川塾ではもちろん(このことは本にも書いた)、外地でも毎日つけ、一年目は大川周明のもとに届くよう外交行囊で送っていたらしい。

大川はアジア各地で何が起こっているか、日ごとに知る機会があった、ということなのだろう。これはすごいことだ、と思う。軍事的な情報などでなく、土地の人と交わっている人たちの行動から、アジアの方々のことがわかったのであろうから。

そして日記の付け方には、重要なポイントがあったということである。それはまたいつか、書いてみたいと思う。

七年前には十二月の雨の日、酒田を訪れた。まだこのように親しくお話を伺うだけのことができなかった自分を思い出す。出会いというのは、ありがたいことなのだ、と思う。

四時少し前、特急「いなほ」で新潟へ。車窓に映る水田はほぼ刈り入れが終わっていた。白鳥はまだ来ていなかった。前回は十一月だったから、白鳥が見えたのだった。

新潟から上越新幹線「Maxとき」で帰京。

酒田の静寂は、もう遠くなった。行きたかったケルンに行けず、これは残念であった。
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by tamaikoakihiro | 2014-10-13 08:07 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

ハノイ、北部仏印進駐

ハノイに日本軍進駐の頃のゆかりの場所を訪ねたことがある。そのときで、進駐から65年以上が経過していたと思う。そうか、進駐は1940年9月だったか。大川周明の弟子の一人も、北部仏印進駐の隊列の中にいた。

フランス側との調整にあたる「澄田機関」のあった建物も「これかな」とものを、古地図を使って見つけた。

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澄田機関の長は澄田睞四郎。息子の一人、智はのちに日銀総裁になっている。自分が最初にニュースで聞いて覚えた日銀総裁の名前、なのだなあ。だから澄田機関の建物を見た時は、仏印進駐のことに加え、あああの総裁の……と思ったなあ。

ハノイには、日本人の商店もたくさんあった。日本人の名前が残っていて、往時の日本人の定着ぶりが窺えた。

「SHIMOMURA」とあるが、これは「下村洋行」という日本人経営の店だったところ。
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by tamaikoakihiro | 2014-09-21 07:26 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

酒田、最上川、日本海

大川周明関連の資料がある光丘文庫には、2011年と2012年に行った。小高い丘の上にあって、眺めがよい。日和山公園の方に行くと最上川と日本海が見渡せた記憶がある。

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2012年に酒田に行ったときは、初日は雨が少し降っていて、翌日はよく晴れて寒かった。酒田の街中を通って、帰路、駅に向かうときは寂しかった。タクシーに同乗して下さった大川塾二期生の方のお話を、まだまだ伺いたかった。

今年は酒田で何を見られるのか、少し、想像してみる。
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by tamaikoakihiro | 2014-09-15 08:45 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

「伝説の外交官」

「外交」(時事通信社)の七月号に掲載された連載「外務省研究――プロの復権」で大川塾生のことが取り上げられていた。

この回のタイトルは「『アジア解放の夢』を見つづけた伝説の外交官」である。筆者は時事通信解説委員・鈴木美勝氏。

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「伝説の外交官」とされた大川塾生の方は二期生で、私は二回お目にかかって話を伺い、また手紙で借問し、お返事をもらったことがある。

大川塾のことを、大変客観的に語ってもらった記憶がある。大川塾の寮歌の作詞者でもある。

文章をよくされ、私家版の冊子も頂戴した。西武新宿線の花小金井で下車してバスに乗り、お宅に伺ったのはもう六年前になる。

自分が会津人であるから、「べらべらと喋らない」ことを美徳としていることを、伺った記憶がある。

その方が、「伝説の外交官」として、カンボジア和平で重要な役割を果たしていたことを、「外交」の記事で初めて知った。聞かれたことには答えるが、自慢めくようなことは自分から話さない――そんな姿勢を持っていたのだと今になって改めて感じた。
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by tamaikoakihiro | 2014-08-28 18:35 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

開戦と南方

72年前、大東亜戦争が始まった。開戦前夜のことは、当時バンコクにいた大川周明の弟子(大川塾生)の方々に聞かせてもらった。

「開戦=真珠湾攻撃」といったイメージが強いようだ。とはいえ南方での作戦も重大なのであった。

バンコクの大川塾生は日本大使館の催した盛大なスキヤキパーティに招かれたそうだ。

あるノンフィクション作家の著作を読むと似たような催しをやはり外国の記者を招いて日本側で行っていたらしい。

いわゆる「偽装」だったのだろうか。その夜のことを想像しては何となく興奮を覚えた。だから毎年、この日を迎えると、思い出して想像を新たにする。毎年毎年、これは変わらない。

バンコクにいたある方は、それからビルマ独立義勇軍(BIA)に参加してラングーンまで向かった。

このBIAのビルマ人側にアウンサンスーチーの父、オンサン(当時を知る人たちはみなこう書いている)がいたことはよく知られた事実である。

そうだ、仏領インドシナにいた方にも開戦の頃のことを伺ったように思う。その方は二度お目に掛かり、いろいろ当時の記録類も見せて下さった。その後、亡くなられた。できあがった本をお渡しすることはできなかった。

ただ御息女から手紙を頂くことができた。望外の喜びを感じた。

「人はそれぞれ立場がある」ということを、その仏印にいらした方から教わった。ありきたりな話かもしれないけれども、これを意識して暮らすことは意外と難しいと思う。

日本人が戦争を戦ったのも、たぶん止むにやまれぬと、当時、信じるに値するものがあったのではないかと、想像する。想像するだけで、とても実感までは持てないのだけれども。

72年前。そうか、開戦の頃から振り返るとすれば、明治維新の頃のことなのか。

実感をもって語れる人は、もはや寥々たる数なのだろう。

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by tamaikoakihiro | 2013-12-08 02:20 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)