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サイゴンとチョロンの間、南洋学院

大東亜戦争が始まった翌年の1942年(昭和17)、サイゴン(現ホーチミン市)に日本の高等専門学校が開かれた。

「南方開拓」において、指導的な立場を果たす日本人を育成するためだった。


学校の名前は、南洋学院といい、主に旧制中学の卒業生が試験を受けて合格すると、海を渡った。修学は2年だったか。3期生まで学んで、敗戦を迎え、短い歴史を閉じた。

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(南洋学院の校舎。日本が接収する以前は、華僑が使う建物だった。この建物の南洋学院開設以前のことは、大川周明の弟子のひとりからも聞いたことがある。)

2004年、この学校の1期生から3期生まで、何人かの方に会って話を聞かせてもらった。

「校舎は残っているんです」と聞いて、旅行で行った折、さらに移住した折に何度か訪ねた。現在はベトナムの会社が使っているようだった。隣はトヨタのショールームで、修理のスペースは学校の敷地内に入っているようにも見える。

今回10年ぶりに訪ねて、撮影した。場所はサイゴンとチョロンの間である。記憶の通りの場所に、残っていた。安心した。
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(後方がY字橋)

南洋学院の生徒たちが「カドヤ」と呼んで繁く通ったという近所の食事や喫茶ができる店は、なくなっていた。夕涼みに行ったという、Y字型の橋「Y字橋」は残っていた。

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(写真は、当時税関だったという建物)

華僑街のチョロンにつながる大通りの高い樹木は、おそらく往時と変わっていないだろうと思われる。もし敗戦後もなくならず(それはムリな話だろうけれども)に存続していたら、「南方」をよく理解し、土地の言葉(ベトナム語)にも精通した人たちが多く、日本人として活躍していただろうと想像する。

上海にあった東亜同文書院の南方版とでもいえばいいのだろうか。同文書院か南洋学院かと考えたというOBにも会ったことを思い出した。
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by tamaikoakihiro | 2017-08-25 16:51 | 南洋学院 | Comments(0)

大東亜戦争と南方物語


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