七ヶ宿、古山高麗雄の父のふるさと
2016年 08月 11日
朝、パソコンで聞いていると、涙が出そうになった。不審がられるので、泣かなかったけれども。
『カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス「古山高麗雄」』
私が古山(人前で話すときは「先生」と敬称をつけるけれども、ここでは省略する。そもそも面識のなかった人間が先生と呼んで良いものか……)を知ったのは没後だった。
返す返すも残念だ。
去る七月の終わり、ゆかりの地である宮城県七ヶ宿町に行く機会があった。昔は七ヶ宿村といったところで、古山の父のふるさとである。
町の「水と歴史の館」には「古山高麗雄の世界」と題した展示がある。古山の遺品のうち、自宅にあったものが寄贈されたのである。
講演というか、集まった皆さんの前で、私がいかに古山を敬愛しているか、煎じ詰めるとそういうシンプルなことを、あれこれ本を書くときに参考にした資料を交えてお話しした。一時間と少し。
生まれてはじめての体験だったので、たどたどしく、何を話しているのか、自分でもよくわからなかった、な。昼過ぎからだったので、もっとたくさんの人を寝かせてしまうと思ったけれども、熱心に聞いてくださっていて、ありがたいことだった。
いちばん反応がよかったのは、古山の第三高等学校時代の成績表をスクリーンに映して話したときかもしれない。
個人情報そのもの、ともとれなくもないけれども、京都大学の資料館で出してもらえたものだった。
「落第」の文字を見直すと、軍国の風潮が濃密に世を覆う頃に、鬱屈し、怠惰に流れ、学校を去ろうとしていた古山の姿が想像された。
私の話が終わったあと、古山のお嬢さんからは「父は(講演は)あなたよりうまかったと思うな(笑)」と、慰めの言葉(?)をもらった。お嬢さんが同道くださったので本当に助かった。
何より嬉しかったのは、古山と生前関係のあった親族の方々、知人の方々が、古山のお嬢さんと初めて会うことに、大変な喜びを示して下さったことだった。
古山は家庭では、何と言えばいいのか、軽んじられるタイプの夫であり父親だったらしい。芥川賞も「父がとれるとは思わなかった」というのがお嬢さんの弁である。だから古山に対する辛辣な見方をお嬢さんは教えてくださるわけだけれども、伺うエピソードから、家庭人としての一面、また愛妻家らしい優しさもほの見えたりして面白いのだった。
父娘の距離が近い関係よりも古山家のような懸隔のありかたが、私にはむしろ好ましく思える、人間らしさがある意味でにじんでいる、というか。
当日は、古山の親類にあたる方で、取材時にお世話になった方が、たくさんの拙著を持参くださっていた。サインをと言われたときは面食らったけれども、これも嬉しいことだった。
親類筋の方々と記念撮影ができたのも、ありがたいことだった。
取材時にお世話になった、前館長の方、雪の中いっしょに「伐開路」(これは古山の三部作『フーコン戦記』で印象的に出てくる言葉だ)をつくった元館員の方に再会できて、これも嬉しかった。
元館員の方とは、昨年本をお送りしたときに電話でお話ししていた。「出ましたね!」と喜んでくださったことが、思い出された。
古山はベストセラーを出すような小説家ではなかった。そのため、と言って良いのか、読者と丁寧に手紙でやりとりをして、実際につきあいをしていた。会うこともあったようである。
そういう姿に憧れていたから、自分がそれに近いことができた七ヶ宿訪問は、実にいうことのないくらい充実した機会になった。
また訪れたいな、と思う。今回は初めて緑におおわれた七ヶ宿を見た。美しかった。「水と歴史の館」の玄関に置かれていた夜香木の花は、いま咲いているだろうか? あまくにおっているだろうか?
そうだ、もし古山に生前私が会えていたとして――果たして私はどう思われただろう?
私のような四角四面な人間を、古山はあまり好かなかったのではと思う。いや、独特の包容力で「そういう奴か」と受け止めてもらえたかもしれない。
しかし想像でしかない。
振り返って、会ったことのない人のことを書けたのは、やはり望外のことだったなと思う。ずっと助けて下さった編集者のKさんにも、ここでこっそりお礼の言葉を……