大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro

北部ベトナム残留

ベトナムに住んでいたとき、最後のベトナム残留日本兵の方に話を聞かせて貰っていた。そのときのことを、思い出した。確か私が帰国してからそんなに経たずに亡くなられたのだった。

ベトナム残留日本兵のこと調べたら、その方のことに、誰もが行き当たるというくらい、よく知られた人だった。ベトナム戦争中、日本の新聞記者とも仲が良かったそうだから、それはそうなのだろう。

お住まいはサイゴン中心部から泥色の運河を渡って行った先にあって、細い路地のつきあたりのこぎれいな建物だった。

深くは伺わなかったが、どういうわけかベトナム人の一家とともに暮らしていた。私がバイクで訪れ、Oさんはいますかと玄関口で挨拶すると、若いベトナム人の男性が丁寧にいつも応対してくれるのだった。

通されると、Oさんはしばしば二階の自室にいらっしゃって、数人でテーブルを囲んで花札のようなものを楽しんでいた。

そんな団らんのひとときを邪魔して話を聞かせてくださいとは、何ともぶしつけな話だったはずだけれども、Oさんはいろいろとご自分のことや亡くなった友人のことなど、話して下さった。

友人の一人は、大川塾生だった。

意外だったのは、ベトナム北部で残留していた頃(ベトナムの南北分断前)、サイゴンの高専、南洋学院卒業生のKさんと、ハイフォン郊外で会ったことがあるということだった。

Kさんなら知っていた、いや面識はもちろんなかったけれども、日本で一度、Kさんの家に電話をかけて、亡くなったKさんの日記があると聞いているので、もしよければ見せてもらえないかと、奥様に尋ねたのだった。

しかしないとのことだった。

その日記のことを、Oさんに話したときだったか、記憶が定かでないが、亡くなったノンフィクション作家、角田房子さんがどこかでその日記をもとに書いていなかったかな、といったようなことを聞いたと記憶する。

Kさんはベトナム北部残留時はフランス植民地軍にいたから、フランスに縁があって、角田房子さんも確かフランスにゆかりのある人で……

とあれこれ想像しながら、Oさんのお住まいを辞去したこともあった。

帰りはいつも、Y字橋、というその名の通り、Y字型の橋を渡って帰った。そこは大戦中、南洋学院の学生たちが夕涼みにいつも散歩したというところなのだった。
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by tamaikoakihiro | 2011-08-05 23:27 | 雑感 | Comments(0)