大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro

昭和の日

今日は昭和天皇の誕生日である。戦前戦中であれば、天長節というのだろう。

いまは「昭和の日」と名前が変わっている。

昭和は、私自身の生まれた時代であるけれども、生きている時代は、平成の方が長くなった。

元号を一つ、またいだわけである。

よく大正生まれは、兵役で苦労した世代である、といういわれ方をしていた。同世代の多くを戦争で失っている。身近に死を何度も見て、そのたびに辛い思いをしてきた方々である。

そういった方々に私は話を伺う機会を得てきたわけだが、多くの人が、戦中・戦後の苦難を経て、現在ではおおむね安らかな生活をされているように見受けられる。

辛い日々の積み重ねが、晩年に報われているのだ、と言っては、私のような人間の言葉として、僭越であり、無礼であると思うが、しかしそういう気持ちを抱くことを、私は抑えられない。なぜなら私の世代も、一つの報いを受けていると感じるから。

私の世代は就職氷河期世代とか、デフレしか知らないとか、苦労が何かと多いように言われる。そのことに対する違和感を、私は大正生まれの方のお話を伺ううちに、強く抱くようになった。

人によって差はあろうが、戦後生まれは、実感として、子ども時代十分に食事をさせてもらい、少年期もお金のかかるクラブ活動やら遊びやらに専心して、何の文句も言われず、むしろそれを奨励された。死ぬ恐怖を味わったことは、一度もなかった。何とも平和な話ばかりしてきた。

つまり与えられてばかりであった。それが少なくとも私個人の実感である。

そのときもらい過ぎたから、大人になって、得るもの(金銭的に)が少ないのだ、これも因果なのだ、と私は思うようになったのだ。

贅沢を、人は言ってはいけないのだ。与えられたら、どこかで失うのだし、失ったら、どこかで与えられることもあるのではないか。

以上、「昭和の日」の朝、安閑とした暮らしを送りながら、考えたのである。
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by tamaikoakihiro | 2010-04-29 09:25 | 雑感 | Comments(0)