「ご縁」という言葉
2010年 04月 28日
今日は、アポイントもなく、ある方のお勤め先に突然お邪魔し、お目にかかった。
初めて会う方だった。何という無謀なことをしたのだろうと、帰宅してから冷汗三斗の思いでいる。
拙稿の掲載された「東京人」をその方のいらっしゃる編集部宛でお送りしてあって、それに対するお返事を本日頂戴し、「ぜひお礼を」と考えたのだった。
厚かましいことに、そして勝手にも「これもご縁なのだろうから」と、道すがら思いこんでいた。
幸いにも快く会ってくださり、丁寧にご対応を賜った。
ありがたいことであった。
しかし34歳になる大人が、思いこみで行動していいはずがない。「ご縁」などというのは、本当に思いこみでしかないことも、多いのだろうし。
私が取材と称して、面晤を乞う方々もまた、私の「ご縁」という幻想に、ひょっとしたら迷惑されているかもしれないのだと考える。
それでもまた、「この方に会ってみたい」「あの方に話を聞かせてもらえないだろうか」などと懲りずに考えるのだが。
初めて会う方だった。何という無謀なことをしたのだろうと、帰宅してから冷汗三斗の思いでいる。
拙稿の掲載された「東京人」をその方のいらっしゃる編集部宛でお送りしてあって、それに対するお返事を本日頂戴し、「ぜひお礼を」と考えたのだった。
厚かましいことに、そして勝手にも「これもご縁なのだろうから」と、道すがら思いこんでいた。
幸いにも快く会ってくださり、丁寧にご対応を賜った。
ありがたいことであった。
しかし34歳になる大人が、思いこみで行動していいはずがない。「ご縁」などというのは、本当に思いこみでしかないことも、多いのだろうし。
私が取材と称して、面晤を乞う方々もまた、私の「ご縁」という幻想に、ひょっとしたら迷惑されているかもしれないのだと考える。
それでもまた、「この方に会ってみたい」「あの方に話を聞かせてもらえないだろうか」などと懲りずに考えるのだが。
by tamaikoakihiro
| 2010-04-28 23:05
| 雑感
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