大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro
『伝わらなかった真実』(上坂冬子・中公文庫)を読んだ。戦争にまつわるノンフィクションの書き手というイメージが強かった。著者自身の生涯を振り返る要素があって、読んでいて飽きなかった。

BG(ビジネスガール)評論家として活躍し、その後、ノンフィクションに転じたという経緯は迂闊にもまったく知らなかった。

印象に残った言葉。「物事を決定する場合には逡巡に重みがあると私は考えていた」――

そうか、そういう言い方が、あったのかと、目を開かれる気がした。

[PR]
# by tamaikoakihiro | 2018-01-06 01:46 | 雑感 | Comments(0)
a0153209_21180320.jpg
出かけた先の団地の一隅で、クリスマスツリーのライトアップを見た。

ベトナムのクリスマスを、思い出した。友人が「ノーエン、ノーエン」と言っているので何のことか尋ねた。
Noel、フランス語が少しなまった感じになっているのだろうか、そういうことだった。

ノーエンのとき、借りていた部屋の近所にあった、フランス統治期に建てられたのであろう、教会を覗きに行ったらたいそうな人混みだった。
a0153209_21300704.jpg
(写真は友人の家の近くにある別の教会=ハントンタイ教会)

フランス統治の影響でベトナムにはカトリックが多くいて、立派な教会が多く、そこに集う人たちの姿もよく見かけた。
異邦人による支配の名残というと、聞こえが悪いけれども、そうだ、知り合った老女も南部ファンラン出身、カトリックだった。

彼女は米軍で働いていたと言っていた。そのため、「VCがこっちに来てから私は辛いことばかりだ」と、恨み言を私に言った。
最初、「ヴィーシー」の意味が分からなかったけれども、Viet Cong(越共)のことなのだった。

米軍のために働いていたら、それは戦争後、苦労しただろうと思う。彼女には、ハントンタイ教会で話しかけられた。
以後何度か話を聞かせてもらった。
a0153209_21422390.jpg
(近所にあったタンディン教会。いまは何色に塗られているのだろう)

彼女はしきりと、「アメリカに行きたい」とこぼしていた。親戚の家に住まわせて貰っているような感じだったと思う。
訪ねていくと、その親戚らしき人がでてきて、少しよそよそしげだった。

10年たってしまった。




[PR]
# by tamaikoakihiro | 2017-12-21 21:44 | 雑感 | Comments(0)
大東亜戦争開戦の日が、今年も過ぎた。七六年前、国運を賭して、としばしばいわれる戦争が、始まった。

毎年思うことは、南方に渡っていた大川周明の弟子の人たちのことである。

何人かに往時のことを教えてもらった。バンコクにいた人、サイゴンにいた人……

貴重な写真を見せてもらった。すべて忘れえぬことだと思う。会津出身のある方は、話を決して誇大にすることなく、淡々とサイゴンで迎えた戦争のことを話してくださったのだ。

私は、いま私がこのように安逸に暮らす所以のひとつであるに違いない大戦争のことを、体験せずして、体験したわけだ。

バンコクから、オンサン将軍(アウンサンスーチーの父)らが参加したビルマ独立義勇軍に加わった人もいた。大尉にいきなり任ぜられて、将校は帯剣が必要だからということか、慌てて街中で刀を買い求めたと回顧した方がいた。
a0153209_20094627.jpg
(写真は、サイゴン中心から少し離れた華僑の町。2005年撮影)

謀略企業のように語られることの多い、昭和通商に入ってシンガポールを目指した方がいた。

寒い寒い日に、暑い南方の若者のことを、思った。他人を想像する、とは古山高麗雄がしばしば語ったことだけれども、そういうことは、口にするのは簡単で、だが容易ではない。

思っても、書かなければ意味がないからである。
a0153209_19595885.jpg
(写真は古山高麗雄の父の郷里、七ヶ宿町)

[PR]
# by tamaikoakihiro | 2017-12-09 20:14 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)

Bap Xao、いちょう団地

いちょう団地に行って、近くのお店でBap Xao(トウモロコシ炒め)を食べた。ベトナムに住んでいた時分、腐臭のする運河の近くのカフェでコーヒーを飲んで、夜をよく過ごした。同僚のベトナム人の友人がよく誘ってくれた。

「何か食べよう」と言って、注文するのがこの食べ物だったと思う。屋台を引く人に注文して、その場でつくってもらう。トウモロコシは日本のものと違い、甘みがない。辛みのあるソースをかけて食べた。

今回久しぶりに食べて、以前を思い出した。日本に来て、数年というベトナムの青年と話した。ラクジャーという、かつて日本軍の航空隊が、シンガポール沖のイギリス東洋艦隊に向けて発進した基地のあるフーコック島の対岸の省都が故郷だといっていた。
a0153209_04455377.jpg
ラクジャーなら、2005年に行ったことがある。バイクもさほど多くない町で、パフパフーと音を鳴らして廃品回収の自転車が流していた。スターバックスの贋の看板を掲げたカフェがあった。いまは本物が、ひょっとしたらあるかもしれない。


[PR]
# by tamaikoakihiro | 2017-11-19 04:51 | 雑感 | Comments(0)

70年前の名簿

1948年にサイゴンで起こされた書類を見ていたら、墨塗り(マスキング)されて名前はわからないが、この人だろうとわかる人の横に「精神病」と書かれていた。

一方的にも思える裁判で次々と極刑を科される同胞を見続けていたら、次は俺もかと、気持ちは沈んだだろう。沈むだけでなく、もうこの世の人として、居続けることを拒む気持ちも起こっただろう。

「精神病」と書かれたその人の、その後は、『世紀の遺書』などで確認できる。サイゴンで、亡くなった。じつに痛ましいことだと思う。下級の将兵に、どこまで責任を負わせたのかといぶかる気持ちがわく。

現在、ホーチミン市と名前を変え、殷賑をきわめる街を、この夏、10年ぶりにうろうろしたけれども、たえず、70年前の日本人の面持ちを探る思いがあった。

しかしそうしたものも日に日に失われる。
a0153209_02103601.jpg
写真はベトナム人の政治犯の房を再現したもの。日本人の戦犯も往時、足枷をはめられていたというから、同じようなものだろう。


[PR]
# by tamaikoakihiro | 2017-11-03 02:11 | 戦犯裁判 | Comments(0)