大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro
10月発行の「こころ」に小文を書く機会を頂いた。

新卒で入った出版社で働き始めた頃に読み、以後しばらく、共感と畏怖とを抱きながら、単行本が出るごとに買っていた小説家がいたのだけれども、すでに物故している。
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その小説家の妻であった方が書いた作品についての書評を、とお話があって、ためらうところは、いつもながらありはしたものの、書かせてもらった。

途中、原稿について、何人かの人に、有益な指摘をもらった。ありがたいことだった。

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# by tamaikoakihiro | 2017-10-05 21:33 | 作家 | Comments(0)

その日その日が生涯

「僕にとってはその日その日が生涯なのだ」

これはラバウルで行われたBC級戦犯裁判で刑死したある陸軍中尉の言葉である。

『ラバウル戦犯弁護人』(光人社NF文庫・松浦義教)を読んでいて見つけた。
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著者は二・二六事件に連座した疑いで代々木の陸軍刑務所(東京陸軍刑務所)に入っていたことがあるという。

敗戦後、ラバウルで戦犯弁護にあたったのである。文藻豊かな人だなと、ところどころの表現に接して思う。

死を確実なものとして意識した人たちの言葉は、老成していて、これが20代、30代そこそこの人たちのそれとは思えないものがある。

これはBC級サイゴン裁判でもそうだし、どこでも同じである。

若い人たちだけに、しかし、悲痛である。幼い子どもがいる人のものなども、なかなかに辛い。

BC級戦犯裁判は、このように覚醒した人々を生み、そしてその人々の多くを殺したわけである。




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# by tamaikoakihiro | 2017-09-29 00:37 | 戦犯裁判 | Comments(0)
「歴史はある意味で、いつも結果論であるし、思想はつねにイデオロギイとして機能するから」云々とあった。『近代の超克』(冨山房百科文庫)を読んでみて出会った、竹内好の文章。

そうだ、結果論で思うのは、いつも私自身、歴史を眺めていて「結果しか、自分の目の前にはないなあ」と当たり前なのだろうけれども、思う。

何の結果か。

それは大東亜戦争、戦後、太平洋戦争と呼ばれた戦争である。
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(植民地時代のサイゴンの地図)

すべてが、というわけでもないけれども、身の回りのことの多くが、戦争の結果だなあと感じる。

住まいの上空かなり低いところでアメリカの飛行機が飛ぶこと(たぶん横田基地に行くのだろう)、流行の音楽のたいていは横文字まがいだったりすること、隣国との関係が、どうも不安定なこと(隣国と円満な関係を築いている国は、あまり多くはないと思う、それはベトナムとカンボジアの関係とか、いろいろと見ればわかる)……

結果しかない世界で、育ってきたような気が、どうにもする。

80年代半ば以降の浮かれた消費文化の中、10代を過ごしたけれども、内需拡大を押しつけられた結果なのだろうとか。

良い本を、読むことができた、な。


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# by tamaikoakihiro | 2017-09-26 20:52 | 雑感 | Comments(0)
大東亜戦争が始まった翌年の1942年(昭和17)、サイゴン(現ホーチミン市)に日本の高等専門学校が開かれた。

「南方開拓」において、指導的な立場を果たす日本人を育成するためだった。


学校の名前は、南洋学院といい、主に旧制中学の卒業生が試験を受けて合格すると、海を渡った。修学は2年だったか。3期生まで学んで、敗戦を迎え、短い歴史を閉じた。

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(南洋学院の校舎。日本が接収する以前は、華僑が使う建物だった。この建物の南洋学院開設以前のことは、大川周明の弟子のひとりからも聞いたことがある。)

2004年、この学校の1期生から3期生まで、何人かの方に会って話を聞かせてもらった。

「校舎は残っているんです」と聞いて、旅行で行った折、さらに移住した折に何度か訪ねた。現在はベトナムの会社が使っているようだった。隣はトヨタのショールームで、修理のスペースは学校の敷地内に入っているようにも見える。

今回10年ぶりに訪ねて、撮影した。場所はサイゴンとチョロンの間である。記憶の通りの場所に、残っていた。安心した。
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(後方がY字橋)

南洋学院の生徒たちが「カドヤ」と呼んで繁く通ったという近所の食事や喫茶ができる店は、なくなっていた。夕涼みに行ったという、Y字型の橋「Y字橋」は残っていた。

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(写真は、当時税関だったという建物)

華僑街のチョロンにつながる大通りの高い樹木は、おそらく往時と変わっていないだろうと思われる。もし敗戦後もなくならず(それはムリな話だろうけれども)に存続していたら、「南方」をよく理解し、土地の言葉(ベトナム語)にも精通した人たちが多く、日本人として活躍していただろうと想像する。

上海にあった東亜同文書院の南方版とでもいえばいいのだろうか。同文書院か南洋学院かと考えたというOBにも会ったことを思い出した。
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# by tamaikoakihiro | 2017-08-25 16:51 | 南洋学院 | Comments(0)

敗戦、終戦、記念日

「終戦記念日」という言い方がある。

八月十五日のことである。敗戦といわず、終戦と言うことに違和感を覚える人は、ある程度、いるようだ。

小説家の古山高麗雄は、違和感をどこかで書いていたと記憶する。近くでは車谷長吉も書いていたなと思う。

そして「記念日」。記念日というと、何かおめでたいことに使われそうである。「結婚記念日」とか。

すると、敗戦は、喜ぶべきことだったのだろうかと思ったりする。(あの戦争にもし勝っていたら、浮かぶ瀬は無かったと、古山が対談で語っていた)

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(写真は十年以上前、ベトナムで撮影したもの)

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# by tamaikoakihiro | 2017-08-14 03:54 | 雑感 | Comments(0)