大東亜戦争と南方物語


by tamaikoakihiro
72年前の3月9日、フランス領インドシナで日本軍が行動を起こして、フランス植民地政府を打倒した。2005年の3月9日を、ベトナムのニンビンで迎えたことを思い出す。

ゲストハウスというか、あれはNHA NGHIというのが正確なのか、とにかく宿で、ものを思ったことを、覚えている。
a0153209_22460209.jpg
あの軍事行動のことは、三九事変ともいうし、軍の作戦名では明号作戦というし、別の言い方では仏印武力処理というのである。

私は古山高麗雄が、プノンペンで明号作戦に参加したことを、彼の著書から知った。ニンビンにいるときに、それでプノンペンのことを思ったな。

その後、大川周明の弟子の方々のことを知るに至り、この前、天皇陛下、皇后陛下が訪れたフエで三九事変に参加した、大川周明の弟子の一人の方の行動にも興味を持った。

その方は、フエの王城に乗り込んだということなのである。そして、かりそめの独立にわくフエの町にあって、独立運動の闘士である老人に会い、その老人が「血を流さなければ本当の独立はない」と語るのを聞いたというのである。
a0153209_22474934.jpg
もうこういう歴史に際会した日本人の数は寥寥たるものだろうと思う。

しかし、直接に話を聞かせてもらったから、私にとってはどうしても忘れられない事実だなあ。
a0153209_22485905.jpg

[PR]
# by tamaikoakihiro | 2017-03-09 22:49 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)
天皇陛下がベトナムを訪問している。ベトナムに残留した日本兵の家族に会ったということだ。たぶん、兵の階級だけでなく将校の階級でも家族を持った人がいただろうと思う。

10年前、残留した日本人のことを書かせてもらう機会があった。

もっと前、そうだ、10数年前、ベトナムに残留してその後、帰還した将校の一人にお目にかかって話を伺った。多摩の山の方にお住まいだった。確か、お宅を訪ねて行ったのだった。

a0153209_01062521.jpg

写真は中部クアンガイという町で撮影したもの。クアンガイに、日本人が指導するベトナムの陸軍士官学校がつくられたのだったと記憶する。そのことも伺った。


そのあと、ベトナムに移り住んだ。そして、ベトナム戦争終結後しばらくまで残留していた、元日本兵(といってもその当時は成人男子の義務だったから、兵隊というのは特殊な存在ではないのだが)の一人に話を何度か聞いた。結構な頻度でお宅を訪ねた記憶がある。

a0153209_01051780.jpg
日本でお目にかかった元将校の方は、まさしくベトナム独立同盟(ベトミン)の幹部を育てた人であった。要するに、現在のベトナムの軍隊の根幹に関わったといって差し支えないだろうと思う。

ベトナムでお目にかかった方は、朝鮮新義州にも一時期住んでいたことがあると語っていた。あるいはどこかで古山高麗雄とすれ違っていたかもしれないと、今になって思う。

残留したのは軍人だけではなかった。家族で残留した方にも話を聞く機会があった。その方(女性)の父上が、ベトミンの中枢から信頼されていたという話を伺った。

ベトナムのことに関心をもって10年以上が経ったな、と思う。

a0153209_01084922.jpg


写真は北部バクザン省のボハというところで撮影したもの。老女たちが集まっていたところで、拙いベトナム語でいろいろ訪ねた。その場所にはかつて、新ベトナム人とよばれた、残留日本人が住んでいたのだった。その日本人は、戦時中サイゴンにあった日本の専門学校、南洋学院の卒業生だった。仮にNさんとしておく。Nさんはすでに物故していたが、同級生だった方には何度も話を伺った。

それでボハに行きたくなった。「日本人がいましたよね?」としつこく問うと、「日本人じゃない、新ベトナム人だっ」と老人たちに言われたことが、記憶に強く残っている。あるサイトにそのときのことを詳しく書いたものを載せた。

a0153209_01120930.jpg

写真はボハの水田。泥の道をバイクタクシーのお兄さんに運んで貰った。ときどき橋で、通行料金というのか、お金を払っていたように思うけれども、あれは記憶違いだろうか。

a0153209_01131571.jpg

ボハの寺。ああ、もう二度と、訪ねられない場所を、数時間で去ったことを、今更悔いてしまう、なあ。

a0153209_01140110.jpg






[PR]
# by tamaikoakihiro | 2017-03-04 01:14 | 雑感 | Comments(0)
2月になった。1942年の2月頃、緒戦の勢いで日本軍はビルマに進んでイギリスを追い出しつつあったはずだな、と思う。

タイとビルマ(ミャンマー)の陸路の国境は、いまも峻険な道があると、何かで読んだ覚えがあるけれども、その戦争のときは、ビルマ独立義勇軍が進んでいったそうだ。

a0153209_21210289.jpg

ビルマ独立義勇軍の大尉だった、往時の青年の方に、タイ、ビルマ国境を歩いて越えた話を聞いたことがある。それは大変なことだったそうだ。まだ十代の青年で、まわりはビルマ人ばかりだったという。

つれていた牛をときどき屠り、食してビルマへと進軍した若者たちの姿を、想像した。

いまは、民主化というので、よく話題になる国であるけれども、しかし当時は大英帝国の植民地だったわけだ。

植民地といえば、その隣のインドもそうだったわけだ。

ここ数カ月、ビルマと同じく東南アジアにあった仏領インドシナのことで、あれこれ読んだりしている。

戦後、フランスが、自らの植民地を荒らした日本軍の将兵を裁いた。BC級戦犯裁判、通称サイゴン裁判である。

記録を読むと、本当にいたたまれない気持ちになる。

実際に裁きを受けた方にも話を伺ったけれども、そもそも戦争犯罪という概念は何なのだろう、と思ったりもした。


[PR]
# by tamaikoakihiro | 2017-02-04 21:22 | 戦犯裁判 | Comments(0)

福島、宮城

昨夏、宮城県の七ヶ宿に行ったけれども、途中、福島を通過した。

2004年、無職だったとき、訪ねた。ベトナムから帰ってからも訪ねた。

福島は短時間しかいたことのない町だけれども、印象深い。古山高麗雄が所属した第二師団は、宮城、福島、新潟の隷下部隊からなる。

BC級戦犯が裁かれたサイゴン裁判の資料を見ていると福島出身の人が多いことがわかる。

また訪れることになるのだろうか。
a0153209_19300256.jpg

[PR]
# by tamaikoakihiro | 2017-01-07 19:33 | 作家 | Comments(0)
75年前、バンコクで大使館主催ですき焼きの会に参加していたという、当時、若者だった方から伺った話を思い出す。開戦前の、ある種の工作だったのだろうか。東亜経済調査局附属研究所、通称大川塾に学び、開戦の年にタイに派遣された卒業生の方だった。

毎年、このことは思い出し、ここに書いている気がする。自分にとって大事なことだからやはり書いてしまう。

タイに、日本軍は無血進駐したということになっているようだけれども、実に、その頃のバンコクは緊張感に満ちていたらしい。

マレー半島の町に上陸する日本軍とともにあった大川塾生の手記を読むと、タイ側との激しい交戦があったことがわかる。上陸される町の領事館にいた大川塾生の手記も興味深いものがあった。

そのあたりのことは、『大川周明 アジア独立の夢』(平凡社新書)に書いたけれども、思い返しても、バンコクの夜、日本軍進駐となるや、大川塾生がいかなる働きをしたのか、興味深いことだと思う。

今年も12月8日が近づいて来たな、と思う。

アメリカと戦争をしたと知らない世代もあるそうだけれども、私にとっては、75年前のことを、語ってくださった方々のことを思うと、昨日のことのように、何かが想像される。自分の経験には、絶対にならないにもかかわらず。

すき焼きの会のことを話して下さった方は鬼籍に入られた。大川塾のことを知りたいと思った私に、さまざまな助けの手を差し伸べて下さった方だった。本ができたあと、インド独立運動の英雄、チャンドラ・ボースにまつわる集いの席でお目にかかった。

そのとき、「よくまとめましたね」と優しく言って下さった。思い出すと、涙が出そうに、なる。
[PR]
# by tamaikoakihiro | 2016-12-07 22:17 | 東亜経済調査局附属研究所 | Comments(0)